わたしたちはしばしば、聖書を大まかな思想の集まりのように扱ってしまいます。神は大筋を示されたけれども、細かい言い回しは人間の書き手に委ねられたのだろう、と。けれども、聖書を書いた人々自身は、そのようには考えていませんでした。彼らは、神が一語一語、一文字に至るまで霊感を与えられたと信じていたのです。

これが、いわゆる完全霊感の教理です。聖霊が、本文のことばそのものを導かれた、ということです。

使徒パウロは、たった一語の形の違いの上に、神学の論証をまるごと組み立てました。ガラテヤ人への手紙で彼が目を留めたのは、単数か複数か、という一点です。

「さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして『子孫たちに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫に』と言っている。これは、キリストのことである。」
ガラテヤ人への手紙 3:16 (口語訳)

パウロは、漠然とした概念から論じたのではありません。彼が拠り所としたのは、(スペルマシン) σπέρμασιν — 「子孫たちに(複数)」ではなく、(スペルマティ) σπέρματι — 「子孫に(単数)」と書かれている、その一点でした。口語訳もこの違いを、「子孫たちに」と「あなたの子孫に」と訳し分けています。どうぞ手元の聖書で確かめてみてください。

主イエスも同じようになさいました。サドカイ人に対して復活を弁証されたとき、主が指し示されたのは、たった一つの動詞の形でした。主はモーセに語られた神のことばを引かれます。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。神は「であった」とは言われず、「である」と言われた。その現在形のゆえに、アブラハムもイサクもヤコブも今なお生きている、と主は証明されたのです。

あなたの聖書の一語一語が、意味を持っています。神は正確にことばを選ばれました。聖書を読むとき、どの語が使われているか、どんな形で語られているか、細部に目を留めてください。神は細部を通して語られるお方です。

神は聖書の思想だけを霊感されたのではありません。ことばそのものを、神が選ばれたのです。