ある人が、御使が自分に現れたと語ります。終りの日にあって死に打ち勝つ鍵を、その御使から授かったのだと言います。

その言葉を信じるべきでしょうか。

いいえ。

御使が実在しないからではありません。御使は確かにいます。けれども神は、ご自身の言葉を飛び越えてお働きになる方ではありません。パウロは二千年前に、この問いに決着をつけています。

「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」 ガラテヤ人への手紙 1:8 (口語訳)

御使が現れたという出来事そのものは、それが神から出た証拠にはなりません。パウロは偽物の存在をはっきりと警告しました。

「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。」 コリント人への第二の手紙 11:14 (口語訳)

ですから、量るべきものは体験ではありません。量るのは、書かれた御言葉です。 ベレヤの人々は、使徒パウロその人の説教を聞きながら、なお聖書に照らして確かめました。

「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。」 使徒行伝 17:11 (口語訳)

聖書は、そんな彼らを咎めてはいません。かえって素直な人たちだと呼んでいます。

神は確かに、終りの日を生きる民に、なお示そうとしておられることをお持ちです。けれども真実の啓示はみな、聖書の中から出てくるのであって、聖書を迂回してやって来ることはありません。パウロの指示は、今もそのまま立っています。

「すべてのものを識別して、良いものを守り、」 テサロニケ人への第一の手紙 5:21 (口語訳)

ここで口語訳が「識別して」と訳している語は、(ドキマゼテ) δοκιμάζετε —「調べる、吟味する、試みにかける」。もとは金属を試すときに用いられた言葉です。金属の真偽は、手に取って眺めているだけでは分かりません。火に入れてこそ分かるのです。

どんな主張も、聖書という火の中に入れてごらんなさい。金であるものは、焼けずに残ります。

開かれた聖書に耐えられない啓示は、神から出たものではありません。