啓示を火に入れなさい

ある人が、御使が自分に現れたと語ります。終りの日にあって死に打ち勝つ鍵を、その御使から授かったのだと言います。
その言葉を信じるべきでしょうか。
いいえ。
御使が実在しないからではありません。御使は確かにいます。けれども神は、ご自身の言葉を飛び越えてお働きになる方ではありません。パウロは二千年前に、この問いに決着をつけています。
御使が現れたという出来事そのものは、それが神から出た証拠にはなりません。パウロは偽物の存在をはっきりと警告しました。
ですから、量るべきものは体験ではありません。量るのは、書かれた御言葉です。 ベレヤの人々は、使徒パウロその人の説教を聞きながら、なお聖書に照らして確かめました。
聖書は、そんな彼らを咎めてはいません。かえって素直な人たちだと呼んでいます。
神は確かに、終りの日を生きる民に、なお示そうとしておられることをお持ちです。けれども真実の啓示はみな、聖書の中から出てくるのであって、聖書を迂回してやって来ることはありません。パウロの指示は、今もそのまま立っています。
ここで口語訳が「識別して」と訳している語は、(ドキマゼテ) δοκιμάζετε —「調べる、吟味する、試みにかける」。もとは金属を試すときに用いられた言葉です。金属の真偽は、手に取って眺めているだけでは分かりません。火に入れてこそ分かるのです。
どんな主張も、聖書という火の中に入れてごらんなさい。金であるものは、焼けずに残ります。
開かれた聖書に耐えられない啓示は、神から出たものではありません。
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