わたしたちは「希望」という言葉で、少しつまずいているのかもしれません。

日ごろ使う「望み」は、どこか心もとない願いです。「雨が降らないといいな」「あの仕事が決まるといいな」。そこには不確かさがにじみ、結果はまだ宙に浮いたままです。

けれども聖書の言う希望は、投げたコインの裏表ではありません。それは錨です。

希望を表すギリシア語は (エルピス) ἐλπίς です。「たぶん」という意味ではありません。「良きものが必ず来るという、確信に満ちた期待」と定義される言葉です。

「わたしたちは、この望みをたましいの錨として持っている。それは安全であり、確かである。」
ヘブル人への手紙 6:19 (NKJV より私訳)

聖書が「救の望みのかぶと」をかぶれと言うとき、それは、神がわたしたちの未来に良きものを運んでくださるという確信で、思いを守りなさいという招きです。

敵はあなたに、後ろ向きの期待を抱かせたがります。朝、目を覚ますなり一日を恐れ、悪い知らせを待ち構え、最悪の場面を思い描く——それは肉の目で見た景色にすぎません。

御霊にあって生きるとは、(エルピス) ἐλπίς を持つことです。この一年を、来週を、明日の朝を見つめて、救いを、全きいやしを、守りを期待することです。嵐が吹き荒れ、波が高くうねるときにも、船を静かに保つ錨がそこにあります。

より良い結果をただ願うのではなく、変わることのない神の恵み深さに、あなたのたましいを錨のようにつなぎとめてください。