倒れる者はひとりもいなかった

エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。
二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。
ひとりもいなかった。数百万の中に、ひとりもです。
何が彼らのからだを癒したのでしょうか。何が、奴隷の民を行進できるほど強くしたのでしょうか。
答えは、その前の晩にあります。家族ごとに一頭の小羊を取りました。その血を、家の門の二本の柱と、かもいに塗りました。そして家の中で、その小羊を食べたのです。
外に塗られた血は、さばきから彼らを守りました。内でいただいた小羊は、それとは別の働きをしました。朝が来たとき、一つの国民がまるごと、健やかに、力強く立っていたのです。
最初の過越は一枚の絵でした。予表であり、もっと大きな食卓の影でした。
幾世紀ののち、主イエスは裏切られた夜に、パンを取られました。
なぜ主は、その教会に食事をお与えになったのでしょうか。主は、私たちがどんな世界に生きることになるかをご存じでした。ウイルスがあり、腫瘍があり、長く続く不調があり、まだ名前さえついていない病があることをご存じでした。だからこそ、答えを残してくださったのです。ご自身の、裂かれたからだを。
主ご自身がこう言われました。
ここで「命」と訳されている語は (ゾーエー) ζωή — 「いのち」です。聖書が来るべき世の命を指すときには、(ゾーエー・アイオーニオス) ζωὴ αἰώνιος — 「永遠のいのち」という、より満ちた言い方が用いられ、口語訳もそこでは「永遠の命」と訳し分けています。けれどもこの箇所で主が言われたのは、ただ「命」でした。いのちそのものを差し出しておられるのです。あなたのからだのためのいのち、その骨組みのための力、その肉のための健やかさを。
ですから、道筋は変わりません。あずかればあずかるほど、いのちはあなたのからだに流れ込みます。あずかればあずかるほど、あなたは強くされていきます。
一切れのパンなど、腫瘍と戦うにはあまりに小さいと思えるでしょうか。神はまさに、そのようになさるお方です。
神は一切れのパンを用いて、腫瘍を無きものとされます。主イエスの裂かれたからだは、あなたが受けうる最上の薬です。
ですから次にパンを手に取るとき、急がないでください。エジプトを思い出してください。あの小羊を思い出してください。そして主に、まっすぐ申し上げるのです。「あなたはそのおからだに、私の病を、私の患いを、私の痛みを負ってくださいました。その打たれた傷によって、私はいやされています」と。信じて求めているものを、はっきり口に出してください。そして、いただくのです。
小羊を食べた翌朝、イスラエルには倒れる者がひとりもいませんでした。しかも彼らが食べたのは、影にすぎなかったのです。あなたが手にしているのは、その本体です。
イスラエルはあの夜、力を勝ち取ったのではありません。力を食べたのです。
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