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ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
検索語: “交わり”
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多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
律法主義の説教は、圧力と脅しを頼りにします。要求すれば従うようになる、という前提です。けれども人の性は、その反対を証ししています。外から押しつけられた規則は、服従よりもむしろ反発を呼び起こすのです。 心の本当の変化は、値なしに与えられる神の恵みが示されるときに起こります。 「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことを知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」 ローマ人への手紙 2...
シナイ山で、イスラエルは仲立ちをする人を求めました。 神が山の上に降られ、人々はそのふもとに立っていました。けれども彼らは、自分から近づこうとせず、モーセを前に押し出したのです。 「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」 出エジプト記 20:19 (口語訳) この本能は、今も私たちから離れてい...
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...
信じていない人でも、幻を見ることはあります。けれども、それを解き明かすのは、神から出た知恵だけです。 パロは夢を見ました。ネブカデネザルも夢を見ました。バラムは幻を見ました。 けれども、そのだれひとり、自分の見たものの意味を悟ってはいませんでした。 聖書は、そのことを繰り返し示しています。 「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである」 申命記 29:29 (口語訳) 見ることと、悟ることは、同...
わたしたちはしばしば、目に見えるもので働きを測ります。規模、活動の多さ、人目につくかどうか。けれども聖書は、外に現れた姿がすべてを語ることはない、と告げます。 サムエルはエリアブを見て、心を動かされました。けれども神は、そうではありませんでした。 「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」サムエル記上 16:7 (口語訳) 神の見極めは、枝からではなく、根から始まります。 しかし、聖書はもう一つの真実...
ダビデ王の時代、イスラエルには不思議な光景がありました。二つの幕屋が、わずか十キロほどを隔てて、同じ時に立っていたのです。 ギベオンには、モーセの幕屋がありました。見るからに堂々としたものでした。青銅の祭壇があり、重い垂れ幕があり、祭司たちがおり、幾世紀もの伝統が積み重なっていました。すべてがそろっていたのです——ただ一つ、契約の箱を除いては。 シオンには、ダビデの幕屋がありました。ただの、開け放...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
終りの日に、神が建て直すと約束されたものがあります。それはモーセの幕屋ではありませんでした。あの制度は、隔たりと重い律法と、目に見える仕切りの上に立っていたからです。神が起すと言われたのは、倒れたままになっていたダビデの幕屋でした。 「その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破れを繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の日のように建てる。」 アモス書 9:11 (口語訳) モーセの幕屋では...
法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...
ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...
すべての突破口が、一瞬にして開かれるわけではありません。多くの場合、それは幾重にも重なって訪れます。一つの言葉、また一つの言葉と、少しずつ。 だからこそ神は、わたしたちを集まりへと招かれます。規則としてではなく、招待として。 「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで、互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」ヘブル人への手紙 10:25 (口語...
人は一生をかけて「何者か」になろうとします。けれども福音は、あなたはすでにそうなのだ、と告げます。 救われたとき、あなたが受け取ったのは課題ではありません。新しい身分です。神は「ふさわしい者になりなさい」と、やるべきことの一覧を手渡されたのではありません。あなたをキリストのうちに置き、「すべては終った」と言われたのです。 問題は、多くの信じる者がなお古い身分から生きていることです。すでに受け入れら...
苦々しさは、伝染します。 聖書は、「苦い根」がはえ出ることのないように気をつけなさい、と警告します。その根がはえ出るとき、毒がまわるのは、怒っている本人だけではありません。「それによって多くの人が汚される」と言われているのです。 苦々しさを抱えた人の言葉に耳を傾けるとき——それが顔を合わせての会話であれ、画面越しであれ——あなたはその人が調合したものを、いっしょに飲んでいます。その毒を、体の中に取...
聖餐は儀式でも象徴でもありません。聖書はそれを、思い起こすためのものだと語ります。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカによる福音書 22:19 (口語訳) ここで用いられているのは (アナムネーシス) ἀνάμνησις — 「記念、思い起こすこと」という言葉です。...
求められることと、応えること。この二つのあいだには、深い隔たりがあります。 ルカによる福音書18章に、ひとりの金持ちの役人が登場します。品行方正で、非の打ちどころがなく、それでいて心は落ち着きません。彼は尋ねます。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と。 イエスは彼に律法をお示しになります。戒めを指し示されます。青年は、それらをみな守ってきたと言い切ります。そこでイエスは、彼が神よりも愛し...
ヨセフは、十戒のない時代に神の臨在を生きました。 律法があるより先に、交わりがありました。神が「姦淫してはならない」と語られるよりも前に、ヨセフはすでに、神がかたわらに立っておられるかのように歩んでいたのです。 彼の言葉が、そのすべてを語っています。 「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょうか」 創世記 39:9 (口語訳) 石の板はありません。戒めの言葉もありま...