わたしたちはしばしば、目に見えるもので働きを測ります。規模、活動の多さ、人目につくかどうか。
けれども聖書は、外に現れた姿がすべてを語ることはない、と告げます。

サムエルはエリアブを見て、心を動かされました。
けれども神は、そうではありませんでした。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
サムエル記上 16:7 (口語訳)

神の見極めは、枝からではなく、根から始まります。

しかし、聖書はもう一つの真実も差し出します。
根が健やかであるなら、枝は必ず実を結ぶのです。

主イエスは言われました。

「あなたがたが多くの実を結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」
ヨハネによる福音書 15:8 (口語訳)

初代教会でも、こう記されています。

「主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」
使徒行伝 2:47 (口語訳)

実りは数だけで測られるものではありません。けれども福音が生きて働いているところに、実りが欠けていたためしはありません。
霊の成長、交わりの成長、宣教の広がり、そしてしばしば数の増加も、キリストを明らかに、恵みをもって語り続けることの、ごく自然な結果なのです。

ですからわたしたちは、ある一時点で大きいか小さいかで教会をはかりません。
語られる言葉が純粋であるか、根が深く据えられているか、実が増し加えられているか——そこを見るのです。

神の国においては、健やかな根は、必ず育ちゆく実へとつながります。