台無しに見えて、そうではない

ちょうどよい時に、ちょうどよい場所にいる——それは、そよ風のように心地よいものだと、わたしたちはつい思い込みます。足もとに赤いじゅうたんがすべらかに敷かれ、扉はひとりでに開き、何もかもがぴたりと収まっていく。そんな光景を思い描くのです。
けれども、神の定めた出会いは、まるで災難のような顔をしてやって来ることがあります。
(カイロス) καιρός — 「定められた時、ふさわしい季節、好機」
「ちょうどよい時」は、その只中では、ちっともありがたく感じられません。渋滞にはまった車の中かもしれません。汗をかきながら空港のターミナルを走り、スーツケースを引き、ベビーカーを押し、腕時計をのぞいては青ざめる——そんな時間かもしれません。
まわりの人はもう悠々と席についているのに、自分だけが最後まで祝福から取り残されている。そんな気持ちになることもあるでしょう。
妻と娘とともに、飛行機に向かって走ったときのことを思い出します。疲れ果て、いらだっていました。わたしたちは遅れていたのです。カウンターはすでに閉まっていました。見かねた係の方の情けで通してはもらえたものの、荷物は間に合わないと告げられました。座席に腰を下ろし、息を切らし、状況に腹を立て、意気消沈していました。
そこへ、アナウンスが流れました。技術的な不具合により、出発が遅れます、と。
その「不具合」のおかげで、わたしたちの荷物は手作業で積み込まれました。わたしをいらだたせた遅れは、実はわたしを救った備えだったのです。わたしたちは、自分の置かれた状況をあまりに早く裁いてしまいます。障害を見ては壁だと思う。けれども神は、そこに避け所をご覧になっているのです。
いま、あなたを苦しめているまさにそのことが、あなたの到着のためにすべてを整えている、神の手立てなのかもしれません。
旅路の険しさを、行き先の間違いと取り違えないでください。
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