多くの人は、霊の救いと体のいやしについては熱心に語ります。
けれども思いについては、衰えていくのが当たり前だと受け入れてしまいます。まるで、そこだけは神が手をつけずに残されたかのように。

けれども聖書は、まさにその領域について、はっきりと語っています。
「しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」
コリント人への第一の手紙 2:16 (口語訳)

ここで「思い」と訳されている語は (ヌース) νοῦς — 「思い・知性」です。揺れ動く感情のことではなく、考え、判断し、覚えるという働きそのものを指します。
キリストの思いが澄みきって、健やかで、強いものであるなら、その方が分け与えてくださる思いも、もろく色あせていくものではありません。
それは主がいやし、回復し、新しくしようとしておられるものです。

物忘れも、思いの疲れも、エデンにはありませんでした。
それらは堕落のあとに入り込んできたものです。
そしてイエスがわたしたちをあがなわれたとき、三分の一だけをあがなわれたのではありません。

十字架の上で、主は霊にも、体にも、そして思いにも触れてくださいました。

パウロはこう語ります。
「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。」
ガラテヤ人への手紙 3:13 (口語訳)

そのあがないの中には、考えを曇らせ、明晰さを奪い、平安を盗んでいったのろいも、確かに含まれています。

神の御心は、あなたが乱れた思いと折り合いをつけて生きることではなく、いやされた思いを受け取ることです。
たましいを生きかえらせてくださるその同じイエスが、あなたの思いもまた回復してくださいます。

回復された思いは、計画の外にあるのではありません。すでに与えられている救いの、確かな一部です。