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神は一語まで選ばれた
わたしたちはしばしば、聖書を大まかな思想の集まりのように扱ってしまいます。神は大筋を示されたけれども、細かい言い回しは人間の書き手に委ねられたのだろう、と。けれども、聖書を書いた人々自身は、そのようには考えていませんでした。彼らは、神が一語一語、一文字に至るまで霊感を与えられたと信じていたのです。 これが、いわゆる完全霊感の教理です。聖霊が、本文のことばそのものを導かれた、ということです。 使徒パ...
検索語: “霊”
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わたしたちはしばしば、聖書を大まかな思想の集まりのように扱ってしまいます。神は大筋を示されたけれども、細かい言い回しは人間の書き手に委ねられたのだろう、と。けれども、聖書を書いた人々自身は、そのようには考えていませんでした。彼らは、神が一語一語、一文字に至るまで霊感を与えられたと信じていたのです。 これが、いわゆる完全霊感の教理です。聖霊が、本文のことばそのものを導かれた、ということです。 使徒パ...
頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...
ヨセフは十七歳で夢を見ることができました。けれども夢を解き明かせるようになったのは、誘惑を退けた後のことです。 夢を見ることは、賜物です。解き明かすことは、成熟です。 ヨセフは若い日に幻を見ました。けれども、その意味は分かっていませんでした。ポテパルの妻に「いいえ」と言ったとき——誘惑が彼を試したその後で——聖書は初めて、彼が夢を解き明かす姿を記します。 「ヨセフは彼らに言った、『解き明かしは神に...
今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...
イエスが死んだ少女をよみがえらせるためにヤイロの家に入られたとき、共に伴われた弟子はたった三人でした。ペテロ、ヤコブ、ヨハネです。 その三つの名前が、ひとつのメッセージを語っています。 ペテロ — (ペトロス) Πέτρος — 「石」ヤコブ — (イアコーボス) Ἰάκωβος — 「押しのける者、取って代わる者」に由来しますヨハネ — (イオーアンネース) Ἰωάννης — 「神は恵み深い」...
聖書を開き、山のような知識を積み上げながら、その著者にはついに出会わない——そういうことが起こり得ます。神学校を優秀な成績で卒業し、頭は満ち足りているのに、心は空っぽのまま、ということも。 聖書は「知識は人を誇らせ」ると告げます(コリント人への第一の手紙 8:1 口語訳より)。誇らせるのが知識なら、人を建て上げるのは啓示です。その違いは頭の良し悪しにあるのではありません。心の姿勢にあるのです。 「...
シナイ山で、イスラエルは仲立ちをする人を求めました。 神が山の上に降られ、人々はそのふもとに立っていました。けれども彼らは、自分から近づこうとせず、モーセを前に押し出したのです。 「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」 出エジプト記 20:19 (口語訳) この本能は、今も私たちから離れてい...
霊的な攻撃を受けると、自分が何か間違ったことをしたせいだと考える人がいます。けれども多くの場合、事実はその逆です。 主イエスはこう言われました。 「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」ヨハネによる福音書 10:10 (口語訳) 盗人は、空っぽの家には押し入りません。宝の置かれている場所をこそ狙うのです。 敵は、あなたのまなざしに宿る安らぎを憎みます。あなたの語り...
多くの信じる者が、まちがった山のふもとに天幕を張ったまま、そこで一生を過ごしています。 聖書は、二つの霊的な場所を並べて示します。シナイの山と、シオンの山です。 シナイは、律法が与えられた場所です。隔たりの場所、雷鳴の場所、身の震える場所。あまりの恐ろしさに、神の友と呼ばれたモーセさえ、揺さぶられたほどでした。 その光景が恐ろしかったので、モーセさえも、「わたしは恐れおののいている」と言った。 ヘ...
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...
主イエスを愛することと、主イエスを分かっていることとは、別のことです。 マグダラのマリヤは、深く主を愛していました。多くをゆるされた人でした。けれども復活の朝、彼女は香料を携えて墓へ来ました。亡骸に油を塗るための備えをして来たのです。心は献身で満ちていましたが、頭の中は死で占められていました。王を捜すべき朝に、彼女は遺体を捜していたのです。 ここでベタニヤのマリヤを思い起こしてみましょう。 主の足...
聖書において、油はただの調味料ではありません。それは聖霊と、その力を指し示すしるしです。 ヤコブの手紙には、病んでいる人に油を注いで祈る場面があります。癒すのは油そのものではありません。その油が指し示している、御霊の力です。 けれども御霊は、癒すだけのお方ではありません。守ってくださるお方でもあります。聖書はこう語ります。 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救...
聖書が何と言っているかを知ることと、聖書がだれに向かって語っているかを知ることとは、別のことです。 主イエスは、その働きの初めに、弟子たちを遣わすにあたって、はっきりとした指示をお与えになりました。 「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」 マタイによる福音書 10:5-6 (口語訳) もし、この主ご自身のことばを、そのまま今日のわたし...
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...
多くの信じる者は、イエスが自分の霊を贖ってくださったことを知っています。そのことを、私たちは喜び祝います。また、主がからだを癒やしてくださることも信じています。 けれども、その二つの間にある部分を、私たちはつい忘れてしまいます。心、すなわち思いです。 パウロは、一つの祈りの中にその三つをすべて並べています。 「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに...
ひとりの病人をいやされる前に、イエスはヨルダン川に立っておられました。水をぶどう酒に変えてもいません。パンを増やして飢えた人々を満たしてもいません。群衆に向かって語られたこともありません。奇跡は、まだ一つも行っておられなかったのです。 それでも、水から上がられたその時、天が開け、父が声をあげられました。 「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」マタイに...
旧約の時代、イスラエルの敵は収穫の時を待ち構えていました。作物が実ると、ミデアンびとが押し寄せて食糧を奪っていったのです。ギデオンが夜、酒ぶねの中で麦を打たなければならなかったのも、ただそれを隠すためでした。 ダビデには、自分たちの食糧を敵に渡すまいとした勇士たちがいました。その一人、シャンマという人は、レンズ豆の畑のただ中に立ちました。 「しかし彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびと...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...