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レンズ豆の畑に立つ
ダビデには三十七人の勇士がいました。その名は、サムエル記下の終わりに、戦没者の碑のように並べられています。城門の攻防や、燃え上がる塔の物語を期待するところです。 ところが、そこに記されているのはこれです。 「彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ペリシテびとが一団となって集まったところに、レンズ豆の茂った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。しかし彼はその畑の真ん中に身を置き、これを...
検索語: “霊”
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ダビデには三十七人の勇士がいました。その名は、サムエル記下の終わりに、戦没者の碑のように並べられています。城門の攻防や、燃え上がる塔の物語を期待するところです。 ところが、そこに記されているのはこれです。 「彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ペリシテびとが一団となって集まったところに、レンズ豆の茂った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。しかし彼はその畑の真ん中に身を置き、これを...
多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...
十字架の上でのイエスの死を思うとき、わたしたちがまず心に浮かべるのは、罪のゆるしです。負債は支払われ、神との間は和らげられた——そのことを喜びます。これこそ、わたしたちの信仰の土台です。 けれども、十字架のみわざは、それよりもさらに満ち足りたものでした。イエスが負われたのは、わたしたちの罪だけではありません。わたしたちの病と、わたしたちの患いをも負われたのです。からだのいやしもまた、贖いの中に含ま...
わたしたちはしばしば、学識と知恵を取り違えます。 学識とは、事実を積み上げることです。知識を蓄え、データを分析し、試験に合格する力のことです。それは確かに尊いものですが、自分の器の大きさを超えることはできません。知恵は、それとは違います。知恵とは、その知識を用いる力です。分析する頭の働きを飛び越えて、ふいに与えられる明るさのことです。 聖書は語ります。ソロモンの知恵は大学から出たものではなく、神か...
二時間、荒れた海に揺られたフェリーを降ります。足はコンクリートを踏んでいます。桟橋は動きません。けれども体は、そうは言いません。それから一時間ほど、地面はあなたの下で上がったり下がったりし続けます。何も動いていないのに、たしかに感じるのです。 あるいは、祭りを告げる鐘が五分間鳴り響きます。鐘つきが綱を放します。鐘は静かに垂れています。それでも、まだ聞こえます。音は空気の中ではもう止んでいます。けれ...
ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
今日のお昼に何を食べたか、思い出してみてください。 では、そこに含まれていたビタミンを挙げてみてください。鶏肉のアミノ酸の組成は。あの温度で、油は米に何をしたのでしょうか。 答えられないはずです。そして、答えられないことが食事の邪魔をしたことは一度もありません。あなたは席につき、おいしくいただき、体のほうは、あなたの許可を待たずに化学を引き受けてくれました。 ところが聖書を開いたとたん、私たちはこ...
信じた人が「あなたは律法に対して死んだ」と初めて聞くとき、きまって顔を出す妥協があります。こう言うのです。「ええ、儀式の律法には死にました。子羊も、祭りも、祭司の清めも。けれども、十戒は別でしょう」。 慎重な言い分に聞こえます。けれども、パウロが書いたのはそれではありません。 教える側は、学びのために律法をいくつかに区分することがあります。儀式律法、民事律法、道徳律法。それは教室の道具です。学ぶ人...
「繁栄」という言葉を聞くと、どこか落ち着かない気持ちになる人は少なくありません。強欲さや自分本位、あるいは上っ面だけの教えを思い浮かべてしまうからです。その警戒心のあまり、神の約束を霊的な領域だけに閉じ込めてしまう。神は霊において豊かにしてくださる、そこまでは信じられる。けれども、からだの健康や日々の必要については、どこか自信が持てないままなのです。 しかし使徒ヨハネは、愛する信徒たちのために、は...
午前一時、ひとりの青年がベッドに横たわり、顔から十五センチのところにスマートフォンを掲げています。浜辺にいる女の子、友人の新しい車、行ったこともない街に住む見知らぬ誰かの部屋。指を滑らせ、いったん置き、また手に取り、また滑らせる。そして明日の朝、彼は今夜よりもう少し気分が沈んでいるのです。 彼は、他人を通して生きています。他人の目で世界を眺め、他人のいちばん良い瞬間と自分を並べてしまう。結果は目に...
多くの人が、聖書を自己改善の手引きのように読んでいます。よりよい人間になるための規則や公式、段取りを求めてページを開く。そうして本文の中に、自分自身を探そうとするのです。 けれども、自分を見つめることで本当の自分が分かることはありません。自分が何者かは、イエスを仰ぐときに分かるのです。聖書のいちばんの目的は、イエス・キリストを明らかにすることにあります。主を見るために——その麗しさ、そのみわざ、そ...
道の上に立ってみてください。人は一度に一つの方向しか向けません。墓に向かって立つか、救い主に向かって立つか。その両方を同時に向くことはできません。 多くの人は、死を前に置いて生きています。道の先にある動かぬ一点として扱うのです。誕生日が来るたびに一歩近づき、検査の結果は道のりを示す標識のように読める。だから人はそれを見越して計画を立て、備えて蓄え、そして恐れます。 聖書は、信じる者をその道の別の位...
サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...
エリシャの召使いは、危険を見ました。エリシャは、現実を見ました。 軍勢が町を取り囲んでいました。馬があり、戦車があり、兵士がいる。召使いは、うろたえました。 人の目から見れば、彼は正しかったのです。神の目から見れば、彼は半分しか見ていなかったのです。 エリシャは、短い祈りをささげました。 「主よ、どうぞ彼の目を開いて見させてください」 列王紀下 6:17 (口語訳) すると、ほんとうの世界が立ちあ...
私たちは情報があふれる時代に生きています。説教を聞き、ディボーションを読み、キリスト教のコンテンツを指先でたどっていきます。それなのに、学んだことをなかなか思い出せない。聞いたこと、読んだことの多くは、数日のうちに指の間からこぼれ落ちていきます。 説教を聞いて心に残るのは、およそ一割だと言われます。読めば二割に増えます。暗記すれば六割ほどになるかもしれません。けれども、八割から十割へと扉を開く黄金...
テサロニケ人への第一の手紙 4 章で、パウロは同じことを二度言います。わずか三節のうちに、同じ言葉が繰り返されるのです。「生きながらえて残る」。聖書における繰り返しは、書き手の不注意ではありません。強調です。神が一つの箇所で二度言われるとき、それは立ち止まって、よく見なさいという合図です。パウロはこう書いています。 「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち...
わたしたちは、目に見えるものの世話に、人生の多くを費やします。家。車。貯え。目の前にあるというだけで、確かなものに思えてくる持ち物。 けれども聖書は、それらをみな、一つの枠の中に置きます。 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙 4:18 (口語訳) 形あるもの、手で触れられるものはみな、すでに過ぎ去りつつあります。揺るがないように見えても、長く...
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
律法は要求します。 恵みは供給します。 子どもに要求ばかりを突きつける親を思い浮かべてみてください。「どうしてもっとちゃんとできないの。なぜ怒るの。変わりなさい。やめなさい」。これが律法の声です。欠けを言い当てはしますが、それを直す力は少しも与えてくれません。 恵みは、同じ問題にまったく別の仕方で近づきます。行いを変えるために必要な「자기」ではなく、まず新しい身分を供給するのです。「あなたはこんな...
わたしたちは「希望」という言葉で、少しつまずいているのかもしれません。 日ごろ使う「望み」は、どこか心もとない願いです。「雨が降らないといいな」「あの仕事が決まるといいな」。そこには不確かさがにじみ、結果はまだ宙に浮いたままです。 けれども聖書の言う希望は、投げたコインの裏表ではありません。それは錨です。 希望を表すギリシア語は (エルピス) ἐλπίς です。「たぶん」という意味ではありません。...