供給を決めるのは景気ではありません

ききんの働きはただ一つです。倉を空にし、物の値を吊り上げ、選べる道を狭めていきます。だれもが一様に貧しくなっていきます。
だからこそ、創世記の三つの場面が際立ちます。三人の人がききんに遭いました。そして三人とも、前より多くのものを携えて、そこを通り抜けているのです。
アブラハムは、入った時より豊かになってエジプトを出ました。
ききんがアブラハムをエジプトへ追いやりました。
問題の一端は、彼自身の遅れにありました。神は父の家を出よと言われたのに、アブラハムは父テラを連れて行き、旅はテラが死ぬまで止まったままでした。カナンにたどり着いたころには、ききんのほうが先に来ていたのです。回り道はすべて彼のせいだ、と言うこともできるでしょう。
それでも神は、備えてくださいました。
ここで「富んでいた」と訳されているヘブライ語は (kaved) כָּבֵד — 「重い、重々しい」です。アブラハムはききんから、かろうじて無傷で出てきたのではありません。荷を積み、身を重くして出てきたのです。口語訳が「非常に富んでいた」と訳すその重みは、彼の完全な従順を待って与えられたものではありませんでした。それは神の真実に支えられていたのであって、アブラハムの実績に支えられていたのではありません。
イサクは、ききんの年に百倍を刈り取りました。
一代のち、またききんが来ます。
イサクはゲラルにとどまり、ききんの年に分別ある農夫なら決してしないことをしました。乾いた地に、種を落としたのです。
収穫は「その年に」訪れました。ききんが明けてからではありません。雨が戻ってからでもありません。収穫とききんは、同じ年の同じ暦を分け合っていたのです。状況は一つのことを語り、祝福はまったく別のことを語りました。
ヨセフは、当時の世界を養いました。
そして、最もひどいききんが来ます。七年続き、あらゆる地に及びました。神はヨセフに、七年の豊作の間に穀物を蓄える知恵をお与えになりました。ききんが襲ったとき、エジプトは世界の穀倉となっていたのです。
彼自身の家族もまた、カナンからパンを買いに下って来ました。神の知恵を持つ一人の人が、国々を飢えさせたききんより長く立ちました。
一つの型が、三つの世代に。
アブラハム、イサク、ヨセフ。祖父、子、そしてひ孫です。それぞれがききんに遭い、それぞれが養われて出てきました。一冊の書の中で同じ場面が三度も繰り返されるのですから、偶然で片づけることはできません。
しかもこの型は、あらゆる場合を覆っています。アブラハムは遅れと不従順を通って、ききんの中へ入り込みました。イサクは従い、その場にとどまりました。ヨセフは裏切られて、そこに落とされました。道はそれぞれ違うのに、行き着く先は同じです。神が備えてくださいました。
ですから、あなたへの問いは、景気が持ちこたえるかどうかではありません。神は今もこの型を守っておられるか、です。守っておられます。なぜならこの型は、もともと良い状況の上に建てられたものではないからです。それは、ご自分の民に対する契約の真実の上に建てられています。
苦しい時は、あなたの供給が実際に何の上に乗っているかを明らかにします。市場の上に乗っているなら、ききんはそれを奪えます。神の上に乗っているなら、ききんはただ、次の創世記 26 章 12 節が書かれるための背景になるだけです。
ききんが測るのは景気です。神を測ったことは、ただの一度もありません。
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