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神はわたしに失望しているのか
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
検索語: “ゆるし”
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また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
かつてダビデは、神の臨在のしるしである契約の箱を、自分の町へ迎え入れようとしました。新しい車を用意し、盛大な行列を整えての出立でした。けれども、その旅は悲劇に終わります。ウザという人が、箱を支えようと手を伸ばし、その場で命を落としたのです。 (ウザ) עֻזָּא —「彼の力」 神の臨在を「自分の力」で扱おうとするとき、待っているのは疲れ果てた心と、力尽きた働きです。神が求めておられるのは、あなた...
備えられてもいない命令を生きるようにと、私たちは造られてはいません。 福音は「しなさい」から始まりません。「すでに成し遂げられた」から始まります。 パウロは「ふさわしく歩きなさい」と言う前に、こう告げます。 「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」エペソ人への手紙 2:6 (口語訳) 神は「ゆるしなさい」と言われる前に、こう言われます。 「神がキリスト...
悔改めとは、言葉づかいの問題ではありません。心が動くことです。 ペテロが罪のゆるしを語ったとき、「さあ、悔い改めなさい」とは言いませんでした。それでも聖書は、こう記しています。 「神は異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」使徒行伝 11:18 (口語訳) どのようにして、でしょうか。福音を聞くことによって、です。 悔改め、すなわち (メタノイア) μετάνοια — 「心の向きが変わる...
多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...
法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...
ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...
多くの信者が、心のどこかに不安を抱えたまま聖餐にあずかってきました。「わたしは、ほんとうに赦されているのだろうか」「わたしの人生には、まだのろいが残っているのではないか」「神は、まだ何かをわたしに対して数え上げておられるのではないか」 けれども主イエスは、この問いに一度きりで決着をつけてくださいました。 杯を取り上げて、主はこう言われました。 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のため...
聖餐は儀式でも象徴でもありません。聖書はそれを、思い起こすためのものだと語ります。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカによる福音書 22:19 (口語訳) ここで用いられているのは (アナムネーシス) ἀνάμνησις — 「記念、思い起こすこと」という言葉です。...
主イエスは、こう言われませんでした。「あなたがたの失敗を記念するため、このように行いなさい」とは。あなたの状態を、とも。あなたの葛藤を、とも。 主が言われたのは、こうでした。 「わたしを記念するため、このように行いなさい」ルカによる福音書 22:19 (口語訳) いやしは、自分の弱さを見つめることからは流れ出しません。主の強さを見つめるところから、流れ出します。 裂かれ、破られ、血に染まったあの御...
コルネリオの家の人々に聖霊が下ったのは、「罪のゆるし」という言葉を聞いたときでした。 招きの言葉もありません。音楽もありません。長い祈りもありません。 ただ、一つの言葉だけでした。 ペテロはこう語りました。 「彼を信じる者はその名によって罪のゆるしが受けられる」使徒行伝 10:43 (口語訳) すると、ただちに—— 「それを聞いている人たち一同の上に聖霊がくだった」使徒行伝 10:44 (口語訳)...
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。」コリント人への第一の手紙 11:29 (口語訳) この一節のゆえに、多くの信仰者が「自分はふさわしくない」と感じて、主の食卓から遠ざかっています。けれどもパウロは、人がふさわしくないとは、ひとことも言っていません。ふさわしくないのは仕方のほうです。 ここは言葉のかたちが大切です。原語は (アナクシオー...
彼女はシモンの家に入って行きました。傷を負った人が、しばしばそうするように。言葉もなく。弁明もなく。ただ涙が、イエスの足もとに落ちるばかりでした。 「彼女はイエスのうしろに立ち、その足もとで泣き……自分の髪の毛でその足をぬぐった」 ルカによる福音書 7:38 (NKJV より私訳) パリサイ人シモンは、彼女を値踏みしました。けれどもイエスは、彼女を分かっておられました。 シモンが彼女の値打ちを量っ...
罪の告白について、少し考えてみたいのです。「ゆるしていただくために、罪を告白しなければならない」——そう聞かされてきました。けれども聖書が信じる者に告げているのは、すでにゆるされているからこそ告白しなさい、ということです。 ヨハネはこう書いています。 「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」ヨハネの第...