罪の告白について、少し考えてみたいのです。
「ゆるしていただくために、罪を告白しなければならない」——そう聞かされてきました。
けれども聖書が信じる者に告げているのは、すでにゆるされているからこそ告白しなさい、ということです。

ヨハネはこう書いています。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」
ヨハネの第一の手紙 1:9 (口語訳)

ここで神がなさっているのは、交わりの回復です。救いのやり直しではありません。

ヘブル人への手紙は、キリストについてこう語ります。 「罪のために、ただひとつのいけにえを永遠にささげられた」 ヘブル人への手紙 10:12 (NKJV より私訳)
永遠に——次の失敗までではありません。
永遠に——次の謝罪までではありません。

ゆるしは、すでに完成した御業です。
告白とは、起こったことについて神と同じ見方に立つこと。赦免を買い取ろうとする行為ではありません。

子が父に「ごめんなさい」と言うとき、その子は少しでも子でなくなるでしょうか。
ただ、隔たりが消えて、また近くなるだけです。
親子であることは、初めから何ひとつ変わっていません。

告白が健やかなものになるのは、それを通貨として差し出すのをやめ、語らいとして受け取りはじめたときです。

ゆるしを得るために告白するのではなく、ゆるされているところから告白するのです。