かすんだまなざしが、また開くとき

何も悪いことは起きていないのに、どうにも心がかすんで見える日があります。世界が暗いからではなく、内側のまなざしが疲れているからです。
聖書は、それが今に始まったことではないと語ります。堕落の前、アダムとエバの霊の目は閉じていました。彼らに見えていたのは、神のいつくしみだけでした。ところが善悪を知る木を選んだとき、その目は思わぬ方へ開かれます(創世記 3:7)。神の豊かさではなく、自分に欠けているものが見えてしまったのです。
復活のあと、主イエスはその物語を逆向きに歩き直してくださいました。
エマオへの道で、主はふたりの弟子と並んで歩き、聖書を説き明かし、そして
見えたのは、自分の失敗ではありません。
自分の裸でもありません。
主ご自身でした。
これこそ、聖餐にひそむ静かな奇跡です。神が、もう一度イエスを見させてくださるのです。
心が恐れや混乱でいっぱいのとき、主は私たちを責めたりなさいません。共にパンをさき、ご自身を現してくださいます。そうして視力は、内側から少しずつ癒やされていきます。
まなざしの真ん中にイエスが戻るとき、見るべきものは、また澄んで見えてきます。
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