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17件の記事が見つかりました

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

老いを世の物差しで測らない

今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...

この約束は携挙の話ではありません

約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

詩篇90篇ではなく、91篇に生きる

多くのクリスチャンが、神はご自分の民の寿命を七十年、あるいは八十年に区切っておられる、と思い込んでいます。その根拠とされるのが、詩篇90篇の一節です。 「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悲しみとであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」 詩篇 90:10 (口語訳) この詩篇を書いたのはモーセです。そして...

造り主の取扱説明書

新しい車を買ったなら、指定された燃料を入れなければなりません。タンクにオレンジジュースを注げば、エンジンは動かなくなります。「オレンジジュースは体にいいのだ」といくら力説しても、結果は変わりません。機械は、造った人の設計どおりにしか動かないからです。 人間も同じです。自分で勝手に人生の規則をこしらえておきながら、心と体が健やかに働くことを期待するわけにはいきません。 「心をつくして主に信頼せよ、自...

加速の恵み

ふつう、種をまいてから実を口にするまでには、長い隔たりがあります。ある季節にまき、別の季節に刈り取る。それが自然の順序です。けれども神は、その時間の隔たりそのものが畳み込まれる日について語られます。あまりに豊かな実りのゆえに、次の作付けをしている人が、今の収穫を집めている人と肩をぶつけ合う——そんな光景です。 「見よ、その日が来る、と主は言われる。その時、耕す者は刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者は...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

カリスとは何か——「恵み」の意味を一変させるギリシア語

多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...

墓の石が動く前に、宣告は下っていました

レビ記には、心に留めておきたい一つの絵があります。一羽の鳥は、らい病の人が清いと宣告されるまで、放たれることがありませんでした。 それは、主イエスのあがないのわざの影です。 キリストは死から解き放たれることができませんでした。あなたが義と宣告されるまでは。 パウロはこう書いています。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ人への...

聖さの基準は、キリスト

わたしたちはしばしば、間違ったものさしで聖さを測ってしまいます。好み、慣習、人の個性、まわりの期待——そんなもので、です。 けれども聖書は、聖さをただひとつの基準に定めました。 「彼におると言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」ヨハネの第一の手紙 2:6 (口語訳) 聖さとは、行いのリストではありません。ひとりのお方です。 「聖」を意味するヘブライ語 (qadosh) קָד...

期待しないほうが、安全ですか

世の中はこう言います。「あまり期待しないほうがいいよ」。その言葉は、あなたを守るために差し出されます。期待を低く抑えておけば、うまくいかなかったときに落胆せずにすむ——そう考えるからです。 けれども聖書は、まるで逆のことを語ります。「救の望みのかぶと」をかぶりなさい、と。 ギリシア語で「望み」はこの言葉です。(エルピス) ἐλπίς — 「良いことが来るという、確信に満ちた喜ばしい期待」 それは願...

神の手は、与える手

神さまは手を差し出して、こちらが出せる以上のものを求めておられる——そんなふうに思い描いている信仰者を、私はよく見かけます。けれども、真実はまったく逆です。物語はごく単純なところから始まります。神は与えるかたであり、私たちは受けるかたなのです。 主イエスは、祈りが足りないと言って弟子たちを責めたことも、断食が少ないと叱ったこともありません。けれども「ああ、信仰の薄い者たちよ」とは、たびたび語られま...

「もの忘れがひどくて」と言う前に

身のまわりで、こんな言葉をよく耳にします。「もう年だから」「最近、もの忘れがひどくて」「頭が働かなくなってきた」 聖書は、口から出る言葉を軽く扱いません。 「死と生とは舌に支配される」箴言 18:21 (口語訳) 言葉は現実をなぞるだけのものではありません。現実をかたちづくっていきます。衰えを自分に向かって語り続けるとき、私たちは知らぬ間に、神がお書きになったことのない筋書きに「そのとおりです」と...

愛は人を道具にしません

めったに口にされない誘惑があります。 はでな誘惑ではありません。もっと静かで、気づきにくい誘惑です。 だれかを自分の引き立て役にすること。求められている、うらやましがられている、認められている、意味のある者だ——そう感じるために、人を使ってしまうことです。 主イエスは、SNSが生まれるはるか前から、このことを言い当てておられます。 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人...

神の回復には、いつも上乗せがある

神の御手の中では、失敗が終わりになることはありません。むしろ、実りを生む土となります。 賠償のささげ物(レビ記6章)では、罪によって失われたものは、元の価にその五分の一(二割)を加えて返さなければなりませんでした。 神がこれを定められたのは、罪を軽く見せるためではありません。人の弱さに、神がどう応えてくださるかを示すためでした。応えは、最低限の埋め合わせではなく、あふれるほどの豊かさなのです。 だ...