復活の主という鏡

わたしたちには癖があります。自分の人生を——その痛み、その失敗、その限界を——じっと見つめて、それを動かしようのない最終の現実として受け入れてしまう癖です。
けれども聖書は、別の鏡を差し出します。自分から目を離して、イエスを見なさい、と。しかも、ガリラヤの岸辺を歩かれた日のイエスだけではありません。今この瞬間のイエス——天に上げられ、栄光を受け、父の右に座しておられるそのお姿を見なさい、と招かれているのです。
聖書は、あなたの本当の姿について、驚くほどの約束を語ります。
時制に目を留めてください。ここは「彼がそうであられた」とは書かれていません。「彼が今そうであられる」と書かれています。ギリシア語の (エスティン) ἐστιν — 「〜である」は現在形で、過ぎ去った出来事ではなく、今まさにそうであるという事実を指します。口語訳もここを過去の話としてではなく、今の主のお姿として訳しています。ご自分の聖書で確かめてみてください。
今この時、イエスは沈み込んでおられるでしょうか。いいえ。ならば、あなたもそうではありません。イエスは病の知らせに胸を痛め、怯えておられるでしょうか。いいえ。ならば、それがあなたの現実でもあります。イエスは「自分は父の御前に立てるほど義しいだろうか」と思い悩んでおられるでしょうか。決して、そのようなことはありません。
主がそうであられるとおりに、あなたもそうなのです。
あなたの罪は、十字架の上で主のからだに置かれました。主はそれを清め、死に、よみがえり、そして座られました。座っておられるということは、働きが終わったということです。主に罪がないのなら、あなたにも罪はありません。
自分の人生に足りないものを見つけたとき、内側をのぞき込まないでください。上を仰いでください。その領域で今イエスがどうしておられるかを知るとき、あなたは自分についての真実を見いだします。
あなたの霊のすがたが映るのは、鏡ではなく、ひとりの御方のうちです。
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