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検索語: 奇跡

7件の記事が見つかりました

働く前に、愛されている

ひとりの病人をいやされる前に、イエスはヨルダン川に立っておられました。水をぶどう酒に変えてもいません。パンを増やして飢えた人々を満たしてもいません。群衆に向かって語られたこともありません。奇跡は、まだ一つも行っておられなかったのです。 それでも、水から上がられたその時、天が開け、父が声をあげられました。 「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」マタイに...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...

義の領収書

復活は、ただの奇跡ではありません。復活は、一つのメッセージです。 聖書はこう語ります。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」ローマ人への手紙 4:25 (口語訳) 十字架の死は、わたしたちの罪の代価がどれほどのものだったかを示しています。そして復活は、その支払いが確かに受け取られたことを示しています。 もし、たとえ一つでも罪が主の上に...

弟子から、子へ

今日の教会は、弟子訓練という言葉をよく口にします。プログラムを組み、指標をつくり、仕組みで測ろうとします。そして「クリスチャンは大勢いるが、弟子はひと握りだ」と語られ、信じる者はどこか自分が二流であるかのように感じてしまいます。 原語に目を向けてみましょう。ユダヤのラビは、自分に従う者たちを (talmidim) תַּלְמִידִים — 「学ぶ者たち」と呼びました。弟子とは、つまるところ生徒...

油注ぎの論理

わたしたちは、筋の通ったものを好みます。神秘よりも論理のほうが、どこか安心できるのです。 ですから、病む人に油を塗るとか、家に油を注ぐといった話を読むと、理性が立ち止まります。古めかしく思えます。理屈に合わないと感じます。「油に何ができるというのか」と。 働くのは、油ではありません。従順です。 旧約に出てくる、らい病のナアマンを思い起こしてください。預言者は彼に、ヨルダン川に七たび身を浸せば清くな...

聖書が語る赦し ― 恵みが与える自由

法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...

神の時が遅すぎることはありません

神による遅れのただ中にいるとき、私たちはたいていそれに気づきません。ただ、重くのしかかる圧力として感じます。「どうして、よりによって今なのか」と思います。時には、神が黙っておられるようにさえ思えます。 けれども、聖書はこう語ります。 「人の歩みは主によって定められる」詩篇 37:23 (口語訳) 急がされたのでもなく。行き当たりばったりでもなく。定められているのです。 ある家族が、夜の便に間に合わ...