今日の教会は、弟子訓練という言葉をよく口にします。プログラムを組み、指標をつくり、仕組みで測ろうとします。そして「クリスチャンは大勢いるが、弟子はひと握りだ」と語られ、信じる者はどこか自分が二流であるかのように感じてしまいます。

原語に目を向けてみましょう。ユダヤのラビは、自分に従う者たちを (talmidim) תַּלְמִידִים — 「学ぶ者たち」と呼びました。弟子とは、つまるところ生徒なのです。

十字架の前、ペテロも、ヤコブも、ヨハネも、学ぶ者でした。師のあとを歩き、戒めを教わり、奇跡を目の当たりにしました。けれども、まだ子ではありませんでした。私たちが子とされるためには、イエスが血を流し、その身分を買い取ってくださる必要があったのです。

四つの福音書には「弟子」という言葉が幾度も出てきます。使徒行伝にも出てきます。教会がまだ土台を学んでいる途中だったからです。けれども、パウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの手紙を読んでみてください。ギリシア語の (mathētēs) μαθητής — 「学ぶ者、弟子」は、福音書と使徒行伝では口語訳が「弟子」と訳していますが、手紙の中で信じる者を言い表す言葉としては、ついに出てこないのです。

代わりに見つかるのは、「聖徒」「兄弟」「愛する者たち」という呼びかけです。そして (huios) υἱός — 「子」という言葉です。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」 ガラテヤ人への手紙 3:26 (口語訳)

人は、自分が何者かを知っているとおりに生きます。生徒であることばかりを強調されると、心に不安が育ちます。生徒はいつも試験を気にしています。落第を恐れています。けれども子は、自分の立場に安んじています。この家に自分の居場所があることを、知っているからです。

神に愛されていると分かったとき、人は、緊張に縛られた生徒よりもはるかに速く学びます。試験に受かるためではなく、父を知りたいから、みことばを開くようになるのです。

子になるために学ぶのではありません。すでに子とされているから、学ぶのです。