ベテスダでいやされたあの人を、イエスはもう一度捜し出されました。

責めるためではありません。
恥をかかせるためでもありません。
守るためでした。

「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたに起るかも知れないから」
ヨハネによる福音書 5:14 (口語訳)

この言葉は脅しではありません。救い出しです。

聖書は、すべての病が罪のせいだとは決して教えていません。
けれども、ある種の罪の繰り返しが、体をむしばんでいくことはあります。
性の乱れ、依存、自分を損なう習慣。

イエスがいやされるとき、その人を丸ごといやされます。体も、これから歩む道も。

あの警告は、罰ではありません。
知恵です。

イエスはこう語っておられるのです。
「あなたを傷つけたところへ、もう戻ってはいけない。
あなたはもう自由なのだから、いやされた者らしく歩きなさい」

いやしは入口です。
恵みがその戸を開き、
知恵がその戸を守ります。

ここに恐れはありません。あるのは安心だけです。
いやしてくださるイエスは、そのまま、導き、守り、支えてくださるイエスです。

主は、床から起き上がらせて、それで終わりにはなさいません。
あの床がもうあなたを決めつけない、新しい歩みへと連れ出してくださいます。

いやしは体を自由にし、知恵はその自由を守り続けます。