イスラエルは二度、水の中を、かわいた地の上に渡りました。

一度目は紅海。二度目はそれから四十年後、ヨルダン川。同じ神、同じ民、同じ奇跡です。水は立ち上がり、民は干上がった川底を歩いて渡りました。

ただ一点だけ、違いがあります。そして、それは小さな違いではありません。

紅海には、箱がありませんでした。ヨルダンでは、契約の箱が先に水の中へ入って行ったのです。

「見よ、全地の主の契約の箱が、あなたがたに先立ってヨルダンに渡ろうとしている。」 ヨシュア記 3:11 (NKJV より私訳)

なぜ紅海には箱がなかったのでしょうか。律法がまだ与えられていなかったからです。イスラエルがシナイ山にたどり着いたのは、エジプトを出て三か月目のことでした(出エジプト記 19:1)。モーセが二枚の板を受け取ったのはその山の上であり、神はそれを箱の中に納めよと命じられました。

「そしてわたしは身をめぐらして山から下り、わたしが造った箱にその板を納めた。主がわたしに命じられたとおり、それは今もそこにある。」 申命記 10:5 (NKJV より私訳)

ですから、紅海に箱があったはずはありません。箱が担っていた律法は、まだイスラエルの手には渡っていなかったのです。紅海は、律法の前に起こりました。ヨルダンは、律法が箱に納められ、祭司の肩に担がれた中で起こりました。

パウロは、これらの出来事が意図をもって書き残されたと語ります。

「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告となるためであり、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。」 コリント人への第一の手紙 10:11 (口語訳)

ここで「警告」と訳されている語は (typoi) τύποι —「型、ひな型」です。型とは、目に見える教材のことです。神は実際の出来事をそのように配置され、後の時代の読者が、教理が地の上で演じられるのを見られるようにしてくださいました。

この二度の渡りは、ローマ人への手紙の二つの章に重なります。

紅海が描くのは、ローマ人への手紙 6章です。イスラエルは海の中を歩いて向こう岸に出ました。背後には、エジプトの軍勢の死が残されていました。パウロはこう書きます。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」 ローマ人への手紙 6:11 (口語訳)

ヨルダンが描くのは、ローマ人への手紙 7章です。ここで主題が変わります。わたしたちが死んだ相手は、もはや罪ではありません。律法です。

「わたしの兄弟たちよ。このようにあなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。……」 ローマ人への手紙 7:4 (口語訳)

「キリストのからだをとおして」という一句が、すべてを決めます。パウロは二度目の死を語っているのではありません。6章は、わたしたちはキリストと共に死んだと言い、7章は、そのからだをとおして死んだと言う。同じ十字架です。キリストが死なれたのは、ただ一度です。

「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に対して生きるのだからである。」 ローマ人への手紙 6:10 (口語訳)

ひとつの死、ふたつの結果。 紅海とヨルダンは、ひとつの出来事を二つの側から見た、二枚の絵です。どちらの時も水は分かれました。どちらの時もイスラエルはかわいた地を歩きました。どちらの時も、彼らは死の場所を通り抜けながら、自分は死ななかったのです。ほかのかたが道を開いてくださったからです。あなたにとって「かわいた地」とは、そういう意味です。現実の死を通られたのはキリストであり、あなたは信仰によって、干上がった川底を歩いて渡るのです。

では、なぜ神は一枚ではなく、二枚の絵を与えられたのでしょうか。

この二つの真理には学ぶ順序があり、多くの信者が最初の一つで足を止めてしまうからです。

罪に対して死んだ、と受け入れるのはたやすいことです。それに異を唱える人はいません。けれども「あなたは律法に対して死んだ」と言うと、人は落ち着かなくなります。悪を行う許しを与えられたように聞こえるからです。パウロも同じ反論に出会い、こう答えました。「律法は罪なのか。断じてそうではない」(ローマ人への手紙 7:7 口語訳)。律法は聖なるものです。ヨルダンの渡りは、律法への攻撃ではありません。今のあなたが、律法に対してどこに立っているかを告げる宣言なのです。

ヨルダンで、律法がどこに立っていたかを見てください。祭司たちは板を担いで川底まで降りて行き、イスラエルが渡り終えるまでそこに立ち続けました。律法は岸に残ったのではありません。民と共に、死の場所へと降りて行ったのです。イスラエルは律法を避けて回り道をしたのではなく、律法が共にある中を渡り、向こう岸へ上がったのでした。

紅海では、敵が背後で死にました。ヨルダンでは、律法が共に死の中へ降り、民はその下にいない者として上がって来ました。同じ十字架、異なる教えです。

十字架を仰ぐとき、この二つの渡りを共に見てください。あなたの罪は死にました。そして、その罪を量っていた律法も、もはやあなたに対して何の権利も持ちません。キリストのからだをとおして、あなたはそれに対して死んだからです。もし紅海しか見えていないなら、あなたは赦しを神に感謝したあと、聖くあり続けるために、また律法の下へ歩いて戻ってしまうでしょう。それは海を渡っておきながら、川を拒むようなものです。その二つの水の間には、四十年の荒野が横たわっているのです。

キリストは一度死なれ、その一度の死が、あなたを罪の向こう側へ、そして律法の向こう側へと渡らせました。海で立ち止まってはなりません。