ひとりの少年が、枯れ葉を大きな籠にかき集めています。葉は軽いので、みるみるうちに山になり、籠はもう一杯に見えます。ところが少年は籠の中に入り、足で踏みつけます。葉は沈み、また入る余地ができます。もう一度かき集め、また満たし、また踏む。それから籠を揺すって葉を落ち着かせ、さらに足していきます。とうとう籠はもう一枚も受けつけず、山は縁からこぼれ落ちます。

主イエスが語られた収穫は、まさにこのとおりでした。

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るはかりで、自分にも量りかえされるであろうから」 ルカによる福音書 6:38 (口語訳)

主はただ「与えよ」とだけ言われたのではありません。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう」と言われました。与えるという行いに、返ってくる約束を結びつけられたのです。しかも、その返り方を細やかに描いてくださいました。量をよくして、おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに、と。

与えるときに見返りを期待するのは貪欲だ、と批判する人がいます。もしその人たちが正しいのなら、主イエスは言わずもがなのことを口にされたことになります。そもそもなぜ収穫を描かれたのでしょうか。聞く者に目をそらしてほしいのなら、なぜあふれる升の絵をわざわざ見せられたのでしょうか。主は批判する人々の意見に与しておられません。主はあなたに、その結果を見つめてほしいのです。収穫があることを、知っていてほしいのです。

貪欲と信仰は別のものです。貪欲は、神が約束しておられないものをつかみ取ろうとします。信仰は、神が約束されたものを待ち望みます。与えて、良い量りを期待するとき、あなたは金銭に心を奪われているのではありません。主イエスのことばを、そのまま受け取っているのです。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、神を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」 ヘブル人への手紙 11:6 (口語訳)

神はご自身を「報いてくださるかた」と呼んでおられます。その報いを期待することは、人格の欠けではありません。それこそが信仰の定義です。むしろ、神があなたの内から金銭への執着を断ち切られるとき、その方法は収穫について黙ることではありません。ご自分の与え方を教え、つかみ取る手を、惜しみなく差し出す手へと変えてくださるのです。

ですから、与えましょう。そして与えるとき、主イエスご自身があなたの内に植えてくださった期待を、言いわけのように隠さないでください。あの籠を思い描いてください。おし入れられ、ゆすり入れられ、あふれ出る籠を。

主イエスが約束されたものを期待するのは、貪欲ではありません。主を信じることです。