持っている人は、何を持っているのか

マタイによる福音書13章で、弟子たちは主イエスに、なぜ群衆には譬で話されるのかと尋ねます。その答えの中に、言葉がひとつ抜け落ちたような一文があります。
持っている人とは、何を持っている人なのでしょう。お金でしょうか。才能でしょうか。マタイは書いていません。主イエスはそこを開いたままにしておられます。読む者は問いを立てることもなく、つい読み過ごしてしまいます。
答えはほかの福音書にあります。種まきの譬は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。三人の書き手は、それぞれほかの二人が省いた言葉を書き留めました。三つの記事を並べてみると、欠けていた言葉が浮かび上がってきます。
マルコは「何を聞くか」を記す
マルコが重きを置くのは、聞く内容です。耳に何を入れるかが大切なのは、言葉がみな同じ力を持っているわけではないからです。人の意見やニュースの見出しにも、役に立つものはあるでしょう。しかしそのどちらも、神の言が生み出すものを生み出すことはできません。
信仰が湧き出る泉はひとつです。まず問われるのは、そもそも自分が神の言を聞いているかどうかです。
ルカは「どう聞くか」を記す
ルカが重きを置くのは、聞く姿勢です。そしてルカは、それを先ほどの欠けた言葉と結びつけています。口語訳には表れていませんが、「持っている人は」の前には、原文で (gar) γάρ — 「なぜなら」 という小さな語が置かれています。「どう聞くかに注意しなさい。なぜなら、持っている人は……」。この一語が二つの文をつないでいます。持っているかどうかは、聞き方にかかっているのです。
持っている人とは、聞く心を持っている人です。 御言を聞きたいと願い、悟りたいと願う人です。その人に、更に与えられます。
二つの文は、どちらも主イエスが語られたものです。マルコは前半を、ルカは後半を書き留めました。原文では、マルコ 4:24 は (ti) τί — 「何を」、ルカ 8:18 は (pōs) πῶς — 「どのように」 となっています。口語訳もこの違いを「聞くことがらに注意しなさい」「どう聞くかに注意するがよい」と訳し分けています。二つを合わせると、教えの全体が見えてきます。何を聞くかに注意し、どう聞くかに注意しなさい、ということです。
両方が欠かせない
正しいものを、誤った聞き方で聞くことがあります。ある人は礼拝の席で膝の上に聖書を開きながら、手元では仕事のメールに返信しています。御言は耳には届いています。けれども心には届いていません。
誤ったものを、飢え渇くように聞くこともあります。ある人は、最後に聖句がひとつ添えられただけの自己啓発の話に、何時間も耳を傾けています。心は開かれています。けれども、そこに種がありません。
主イエスは良い地をこう説明されました。
どの地に落ちたのも、同じ種でした。違っていたのは、それを受けとめた心です。
ソロモンが求めたもの
神が若いソロモンに、何でも求めよと言われたとき、ソロモンが願ったのはただひとつでした。
「聞きわける心」と訳された言葉は (lev shomea) לֵב שֹׁמֵעַ — 「聞く心」 です。ソロモンが求めたのは、耳を傾ける心でした。神は彼に、それまでのどの王も持たなかった知恵をお与えになりました。持っている人に、更に与えられたのです。
ルカは、マタイにない言葉をひとつ添えています。「持っていると思っているもの」です。ここで用いられている (dokei) δοκεῖ — 「思われる、見える」 は、本人がそう思い込んでいることも、周りの目にそう映ることも含む語です。何年も説教を聞き続け、いかにも御言を手にしているように見える人がいます。けれども聞く心がなければ、持っているつもりのものは、指の間からこぼれ落ちていきます。
ソロモンが求めたものを、あなたも神に求めることができます。聖書を開く前に、説教の再生ボタンを押す前に、二つのことを確かめてください。これは神の言だろうか。わたしはそれを受けとめるつもりで聞いているだろうか。そして祈ってください。「主よ、わたしに聞く心をお与えください」。
群衆はみな、同じ神の言を聞いていました。けれども更に豊かに与えられたのは、それを受けとめようとして来た人たちです。
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