資格を問わないいやし

わたしたちはしばしば、神の祝福を受けるには、まず自分がその資格を整えなければならないと思い込みます。抱えている問題を片づけ、心の苦さをひとつ残らず取り除き、罪をすべて言い表してから、ようやくいやしを願えるのだ、と。神の力を、行いの良さに対するご褒美のように扱ってしまうのです。
けれども、福音書に描かれた主イエスのみわざを見るとき、そこにはまったく違う筋道が見えてきます。主イエスは、人をいやされる前に、その人に資格を求められたことが一度もありませんでした。
主は、岸辺に集まった病人たちに面接をなさいませんでした。夫婦仲はうまくいっているか、とお尋ねになりませんでした。言い表していない罪はないか、心に恨みが残ってはいないか、と点検なさいませんでした。ただ、その必要をご覧になり、深くあわれみ、いやされたのです。
恵みは、まったくの無償です。もし資格が要るのなら、それはもう恵みではありません。働きに対する報酬になってしまいます。
多くの信じる者が、自分が完全になる日を待つあまり、いやしを先延ばしにしています。「もっと祈るようになったら」「怒らなくなったら、そのとき神はいやしてくださるだろう」と考えるのです。しかしそれは、自分の努力に頼ることにほかなりません。目を主イエスから離し、自分自身へと向けさせてしまいます。
主イエスは救い主です。あなたが完全だからではなく、主が良いお方だから、あなたをいやされます。ありのままの姿で、御前に出てください。値なしに与えられるその恵みに、からだも心も回復していただきましょう。
主イエスは、あなたの人生が整うのを待ってからいやされるのではありません。そのいやしの恵みは、無償で、何の条件もありません。
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