二時間、荒れた海に揺られたフェリーを降ります。足はコンクリートを踏んでいます。桟橋は動きません。けれども体は、そうは言いません。それから一時間ほど、地面はあなたの下で上がったり下がったりし続けます。何も動いていないのに、たしかに感じるのです。

あるいは、祭りを告げる鐘が五分間鳴り響きます。鐘つきが綱を放します。鐘は静かに垂れています。それでも、まだ聞こえます。音は空気の中ではもう止んでいます。けれども頭の中では、まだ止んでいないのです。

二つの事実が並んで座っています。あなたの実感にとって、その揺れは本物です。事実にとっては、本物ではありません。

肉とは、そういうものです。

神は、肉が「死んだように感じるだろう」とは言われません。ある場所で、ある時に、死んだと言われるのです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの古き人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」 ローマ人への手紙 6:6 (口語訳)

そして神は、命令をお与えになります。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」 ローマ人への手紙 6:11 (口語訳)

この命令の形が、あることを教えてくれます。もし肉が実感のうえで死んでいるなら、神はわざわざ「死んだと認めなさい」とは言われないはずです。言われなくても分かるからです。誰も、遺体を前にして「これは遺体だ」と数え上げたりはしません。神がこの命令をお与えになるのは、あなたの実感と神の事実とがまだ一致していないからであり、そのうえで、神の事実の側に立ちなさいと招いておられるからです。

「認むべきである」と訳された言葉は、(ロギゼステ) λογίζεσθε —「数え入れる、勘定に入れる、そう見なす」です。帳簿係の言葉です。帳簿係は残高を作り出しはしません。すでに事実であることを、書き記すだけです。

では、そのずれはどこにあるのでしょうか。あなたの霊ではありません。あなたの霊はキリストのうちにあり、キリストにあってその死は十字架で起こりました。ずれがあるのは、あなたの魂です。思い、記憶、感情。そこで桟橋はなお揺れ、そこで鐘はなお鳴っています。だからパウロは、働きがどこで進むのかを、はっきりと告げるのです。

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ完全であるかを、わきまえ知るべきである。」 ローマ人への手紙 12:2 (口語訳)

もう一つ。肉を死んだものと認めた直後に、その感覚がかえって大きくなっても、驚かないでください。それは、勝負に負けた者が、まだ負けていないと思わせようとする、最後のあがきにすぎません。

肉が呼びかけてきたとき、その感覚と言い争ってはいけません。感情は議論に答えません。その感覚が何であるかを、そのまま名指ししてください。古い揺れを報告し続ける体、止んだ音を再生し続ける思い。そして、神が言われることを口にしてください。死んだ。キリストにある。十字架で。

あなたの足は桟橋の上にあります。揺れではなく、桟橋を信じてください。