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それでも、子どもに御言を届けましょう
ある父親が、九歳の息子の隣に腰を下ろします。息子は大好きなテレビ番組に見入っています。決められたテレビの時間なので、父親はテレビを消しません。 父親は聖書を開き、マタイによる福音書4章、荒野での試みの場面を息子に見せます。悪魔が口を開くたびに、イエスは同じ言葉で答えられます。「……と書いてある」。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごら...
検索語: “種”
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ある父親が、九歳の息子の隣に腰を下ろします。息子は大好きなテレビ番組に見入っています。決められたテレビの時間なので、父親はテレビを消しません。 父親は聖書を開き、マタイによる福音書4章、荒野での試みの場面を息子に見せます。悪魔が口を開くたびに、イエスは同じ言葉で答えられます。「……と書いてある」。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごら...
朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。 彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込ん...
ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
最初の刈り入れを終えた農夫が、畑を歩いてまわります。まいた種一粒につき、実った粒は三十。それでも彼は、畑を掘り返したりはしません。もう一度、種をまくのです。 種まきのたとえを読むとき、私たちの多くは一足飛びに百倍を望みます。三十倍はびりのように聞こえ、六十倍は「あと一歩」のように聞こえます。 マタイは収穫を大きい数から並べています。マルコは小さい数から並べています。 「ほかの種は良い地に落ちた。そ...
エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...
レビ記は、五つの供え物から始まります。イスラエルはその五つを同じ祭壇に運び、同じ火がそれを焼き尽くしました。それなのに、神が「香ばしいかおり」という言葉を添えられたのは、そのうちの三つだけです。 後の二つ、罪祭と愆祭は義務でした。罪を犯したなら、携えて行かなければなりません。前の三つ、燔祭と素祭と酬恩祭は自発でした。それを手から引き出す律法はどこにもありません。ただ神を愛していたから、感謝したかっ...
パウロは、同時代の誰よりも輝かしい宗教的経歴の持ち主でした。八日目の割礼。パリサイ人。律法の基準から言えば、非のうちどころがない。ところが彼は、その一切を投げ捨てたのです。 なぜ、あれほどの肩書を手放したのでしょうか。肩書では決して買えないものを、見つけたからです。 義には二種類あります。自分で造り出す義と、与えられて受け取る義です。前者は律法から来ます。努力を重ね、自分を量り、記録を磨き上げる。...
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
ききんの働きはただ一つです。倉を空にし、物の値を吊り上げ、選べる道を狭めていきます。だれもが一様に貧しくなっていきます。 だからこそ、創世記の三つの場面が際立ちます。三人の人がききんに遭いました。そして三人とも、前より多くのものを携えて、そこを通り抜けているのです。 アブラハムは、入った時より豊かになってエジプトを出ました。 ききんがアブラハムをエジプトへ追いやりました。 「さて、その地にききんが...
皮肉屋は、美しい部屋に通されると、まず埃を見つけます。 エレミヤ書は、二種類の人を並べて描きます。のろわれた人は、荒野に立つ乾いた低木のようだ、と。 「彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地におる。」 エレミヤ書 17:6 (口語訳) この人の悲劇がどこにあるか、心に留めてください。良いものは、ちゃんと届いているのです。ただ、それ...
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
主イエスは、ご自身が再び来られる前の時代は、ノアの生きた日々とよく似たものになると語られました。その時代について、聖書は、堕落した御使いたちが人の姿をとり、女たちと交わったことを記しています。ヘブライ語の本文では、彼らは「神の子たち」と呼ばれています。そしてこの結びつきから、混じり合った種族が生まれました。それが、巨人とも呼ばれる (ネフィリム) נְפִילִים — 「落ちた者たち」です。口語...
肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...
イザヤ書53章は「霊的な」いやしだけを語っているのではないか。そう思いめぐらす信仰者がいます。あるいは、限られた種類の病だけを指しているのではないか、と考える人もいます。 イザヤはこう記しました。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」イザヤ書 53:4 (口語訳) ここで用いられているヘブライ語に、目を留めてみたいのです。 (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」……...
私たちはよく、行いを整えることで自分を変えようとします。もっと厳しい習慣、もっと強い意志、もっと固い自制。 けれども主イエスは、もっと素朴な絵を示されます。 「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」ヨハネによる福音書 15:5 (口語訳) 豊かに実を結ぶ枝は、歯を食いしばった結果ではありません。ぶどうの木につながったまま、そこにいた...
群衆に気を取られていると、救い主を見落としてしまいます。 エリコの通りは騒然としていました。人の声、足音、物売りのざわめきが入り混じり、だれもが押し合いへし合いしながら、あの名高い教師をひと目見ようとしていたのです。 けれども、有名人を眺めることと、命綱を仰ぐことは、まるで別のことです。 ザアカイは背が低く、人々の肩越しに見ることができませんでした。しかし、その切実さが、彼に別の種類のまなざしを与...
ふつう、種をまいてから実を口にするまでには、長い隔たりがあります。ある季節にまき、別の季節に刈り取る。それが自然の順序です。けれども神は、その時間の隔たりそのものが畳み込まれる日について語られます。あまりに豊かな実りのゆえに、次の作付けをしている人が、今の収穫を집めている人と肩をぶつけ合う——そんな光景です。 「見よ、その日が来る、と主は言われる。その時、耕す者は刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者は...
「終わりの時」と聞くと、憶測の種か、あるいは恐れの種として受け止める人が少なくありません。けれども主イエスは、この時代を見分けるための、はっきりと目に見えるしるしを与えてくださいました。戦争、戦争のうわさ、大きな地震、そして世界規模の疫病。主が挙げられたのは、まさに私たちが今日、日々の報道で目にしているものばかりです。 「また恐ろしい事や、天からの物すごい前兆があるであろう。」 ルカによる福音書...
自然の世界には、必ず「間(ま)」があります。 十月に種をまき、冬の間じっと待ち、四月に刈り取る。働きと報いとの間には、幾月もの沈黙があり、幾月もの待つ時間があります。 けれども神は、その時間割そのものが畳まれてしまう季節を約束しておられます。 「主は言われる、見よ、このような日が来る。その日には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種をまく者に相継ぐ……」 アモス書 9:13 (口語訳) 思い...