パウロは、同時代の誰よりも輝かしい宗教的経歴の持ち主でした。八日目の割礼。パリサイ人。律法の基準から言えば、非のうちどころがない。ところが彼は、その一切を投げ捨てたのです。

なぜ、あれほどの肩書を手放したのでしょうか。肩書では決して買えないものを、見つけたからです。

義には二種類あります。自分で造り出す義と、与えられて受け取る義です。前者は律法から来ます。努力を重ね、自分を量り、記録を磨き上げる。後者は神からの賜物として来ます。そして信仰は、それを受け取る手です。自分で造る義とは、形になった高ぶりです。「わたしに神は要らない。自分で自分を正しくできる」と言っているのですから。受け取る義は、正反対のことを言います。この方なしには、わたしには何もない、と。

パウロは賜物のほうを選びました。彼自身の言葉に耳を傾けてみましょう。

「……律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、」 ピリピ人への手紙 3:9-10 (口語訳)

順序は動きません。まず信仰による義。次にキリストを知ること。そして復活の力です。「キリストを知るため」と訳される句は (tou gnōnai auton) τοῦ γνῶναι αὐτόν —「彼を知るために」であり、目的を告げる言い方です。パウロが義という賜物を受けたのは、キリストを知り、復活の力を経験するためでした。

これを書いたとき、パウロはすでに救われていました。信じたその日に、復活の力が彼の霊を死からよみがえらせていたのです。けれどもパウロは、過去の出来事だけで満足しませんでした。キリストを親しく知りたい。そして同じ力が今の生活に働くのを見たい。この体においてさえも、と。

その力への扉を開くのは、さらなる努力ではありませんでした。賜物をより深く握ることでした。

「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」 コリント人への第二の手紙 5:21 (口語訳)

ですから、受け取ってください。学んでください。声に出して言ってみてください。「わたしはキリストにあって神の義です」と。この賜物への自覚が深まるほど、あなたはこの方を知るようになります。そしてこの方を知るほど、その復活の力があなたの人生に触れていきます。

復活の力は、よじ登って手に入れるものではありません。その扉を開く義を、ただ与えられるほかないのです。

復活の力は、資格を備えた者への報酬ではありません。キリストがすでに勝ち取ってくださったものを受け取る人に、流れ込むのです。