実は、力みではなく、つながりから

私たちはよく、行いを整えることで自分を変えようとします。
もっと厳しい習慣、もっと強い意志、もっと固い自制。
けれども主イエスは、もっと素朴な絵を示されます。
ヨハネによる福音書 15:5 (口語訳)
豊かに実を結ぶ枝は、歯を食いしばった結果ではありません。
ぶどうの木につながったまま、そこにいた結果です。
ここで「つながる」と訳されている言葉、(メノー) μένω — 「とどまる、宿る、離れずにいる」には、力みの気配がまったくありません。
ただ、そこにいること。
ただ、関係の中にあること。
口語訳がこの語を「つながる」と訳しているのも、実に味わい深いことです。
心が恵みの中で安らぐとき、人は別の中心から生き始めます。
古い反応がやわらぎます。
新しい願いが目を覚まします。
長年の癖が、押しつけられることなく、静かに変わっていきます。
正しく信じることは、掲げるだけの標語ではありません。
キリストにあって赦され、義とされている——その思いに、日ごと種をまくことです。
そしてまかれた種は、必ず何かを結びます。
自分が木になろうとする手を下ろし、ただ木につながっているとき、実はいちばんよく育ちます。
この記事が心に残りましたか。毎朝、こうした短いディボーションをメールでお届けします。
