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検索語: “立場”

20件の記事が見つかりました

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

死に至る実か、神に至る実か

いちじくの木と実について言い争う人はいません。枝を見て、そこに何が下がっているかを見れば、それがどんな木なのかが分かります。 パウロもローマ人への手紙 7 章で同じ物差しを用います。律法について何を信じているか、とは尋ねません。あなたの人生が何を結んでいるかを問うのです。 「わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情がわたしたちの肢体のうちに働いていて、死のために実を結ばせた。」 ローマ人へ...

ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に

多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

栄光へと導かれて

私たちは罪を、規則を破ること、悪い行いをすることだと考えがちです。けれども聖書は罪を、神の栄光に達しないことと語ります。それは行いの失敗である以前に、立場の喪失であり、住む場所の喪失なのです。 ですから救いとは、あなたを地獄から遠ざけるだけのものではありません。あなたを栄光へと連れ戻すことなのです。 「そもそも、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、...

はがされた恥 — 主が着せてくださる衣

古代の戦において、王家の上着は、その人の身分と権威と、これから歩む未来とを語るものでした。ダビデがゴリアテを討ち取り、敵の首を手にして王の前に立ったとき、イスラエルの王子ヨナタンは、ためらうことなく、思い切ったことをします。 「ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。またそのいくさ衣、およびつるぎ、弓、帯までも、そうした。」サムエル記上 18:4 (口語訳) ヨナタンは、自分の身分を表...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

アガペーとは何か — 条件をつけない神の愛

ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...

譲り渡された権威

法的に、あるいは制度として見るとき、権威とは感じ取るものではなく、代表するものです。主イエスは「いっさいの権威」がご自分に与えられたと言われ、そのうえで、その立場をご自分に従う者たちに委ねられました。 「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたので、あなたがたを害するものは、決して何もない」 ルカによる福音書 10:19 (口語訳) これは実務としての委譲...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...

義の領収書

復活は、ただの奇跡ではありません。復活は、一つのメッセージです。 聖書はこう語ります。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」ローマ人への手紙 4:25 (口語訳) 十字架の死は、わたしたちの罪の代価がどれほどのものだったかを示しています。そして復活は、その支払いが確かに受け取られたことを示しています。 もし、たとえ一つでも罪が主の上に...

セラ——立ち止まるという技

聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...

律法の下ではなく、恵みの下に

律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...

あなたの本当の血筋

人は神ではなくサタンを信じ、大逆の罪を犯しました。このただ一つの選びによって、傷ひとつなかった世界に、老いと病と死が入り込んだのです。 わたしたちはふだん、自分を地上の系図で説明します。父の短気を、父の不安を、父の病歴を、いずれ受け継ぐものと思い込んでいます。世は言います。あなたの健康も、あなたの性格も、血のつながりが決めるのだと。 けれども聖書は、その鎖をきっぱりと断ち切ります。イエスは第二のア...

弟子から、子へ

今日の教会は、弟子訓練という言葉をよく口にします。プログラムを組み、指標をつくり、仕組みで測ろうとします。そして「クリスチャンは大勢いるが、弟子はひと握りだ」と語られ、信じる者はどこか自分が二流であるかのように感じてしまいます。 原語に目を向けてみましょう。ユダヤのラビは、自分に従う者たちを (talmidim) תַּלְמִידִים — 「学ぶ者たち」と呼びました。弟子とは、つまるところ生徒...

あなたの価値を決めたのは、十字架です

肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...