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ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
検索語: “きよめ”
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多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
恵みとは、神が私たちを気の毒に思ってくださることだ——そう考える人は少なくありません。神は私たちの過ちをご覧になり、ため息をつき、まあ今回は見逃してやろうと決めてくださる。そんな絵を思い描くのです。 しかし神は、完全な裁判官です。完全な裁判官が、哀れに思ったからといって罪ある者を無罪のまま帰すことはできません。あわれみが正義を飛び越えることはできないのです。もしそれが起こるなら、神の御座はその正し...
聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...
友人に一万ドルの借りがあると想像してみてください。この日までに返すと約束したのに、その日は過ぎ、手もとにお金はありませんでした。 そのあと、何が起こるでしょうか。その友人の顔を見るたびに、胸がちくりと痛みます。だんだん会うのを避けるようになります。話しかけずにすむように、道の反対側へ渡ったりもします。相手を嫌っているわけではありません。ただ、良心に負債がのしかかっているのです。 これが、神に対する...
重い皮膚病を患う十人の人が、遠くに立ったまま、あわれみを求めて叫びました。イエスがお答えになったのは、そのときにはまだ意味の通らない一つの言葉でした。 「行って、祭司たちにからだを見せなさい」ルカによる福音書 17:14 (NKJV より私訳) けれども、祭司のもとへ行くのは、すでにきよめられた者がすることでした。彼らは、まだそうではありませんでした。 病はそのまま。隔ての壁もそのまま。身に負った...
裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...
聖書は、意志の力で罪と戦いなさいとは、ひとことも言っていません。むしろ、この真理のうちに憩いなさいと招いています。 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」ローマ人への手紙 6:14 (口語訳) 律法は、問題を指し示します。恵みは、その問題から解き放ちます。 恵みによって解放された人が、何か月も、何年もたってから証しを書くことが多...
法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...
ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...
多くの信じる人が、自分の義を薄いガラスのように扱っています。美しいけれど、ひと当たりで砕けてしまうもののように。 けれども聖書は、まったく別のことを告げています。 「彼は一つのささげ物によって、きよめられる者たちを永遠に全うされたのである。」ヘブル人への手紙 10:14 (口語訳) ここで「永遠に」と訳されている言葉は、時を語る一語です。(エイス ト ディエーネケス) εἰς τὸ διηνεκέ...
福音は心をきよめます。 人は、外側から内側へと自分を変えようとします。けれども神は、内側から外側へと私たちを変えてくださいます。 習慣を洗い直し、ふるまいを整え、衝動を抑えることはできます。けれども、きよさが始まるのは、福音だけが届く場所――心です。 聖書は、実に簡潔です。 「信仰によって彼らの心をきよめ」使徒行伝 15:9 (NKJV より私訳) 福音は、ただ赦すだけではありません。きよめます。...
福音は人を変えます。道徳だけを見つめていると、心に苦さが芽生えます。 恵みのない道徳は、重荷になります。愛のない重荷は、恨みに変わります。 だからこそ福音は、規則からも自己改善からも始まりません。始まりは、ひとりの方との出会いです。 主イエスは、パリサイ人たちに驚くべきことを言われました。 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものであ...
十字架の究極の目的は、何でしょうか。 多くの人は「赦し」と答えるでしょう。あるいは「天国」と答えるかもしれません。けれどもヘブル書の著者は、霊的な成熟をはかる、大胆なものさしを差し出します。もはや罪の意識がない、というものさしです。 「儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の意識がなくなるのであるから」 ヘブル人への手紙 10:2 (口語訳) 宗教は、あなたが自分の汚れをたえず意...
いちばん信じにくいことの一つは、自分にはまだ欠けが見えているのに、神はあなたをきよい者として見ておられる、ということです。 主イエスは弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは、わたしが語った言葉によって、すでにきよくされている」 ヨハネによる福音書 15:3 (口語訳) これから きよくなる、のではありません。すでに きよい、のです。 ここで使われているのは (カタロス) καθαρός —...
罪の告白について、少し考えてみたいのです。「ゆるしていただくために、罪を告白しなければならない」——そう聞かされてきました。けれども聖書が信じる者に告げているのは、すでにゆるされているからこそ告白しなさい、ということです。 ヨハネはこう書いています。 「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」ヨハネの第...
束縛から抜け出す道は、はじめのうち、たいして力があるようには見えないことがあります。むしろ、あまりにも単純に思えるのです。 「まだもがいている最中に、私はキリストにあって神の義です と告白したところで、いったい何が変わるのでしょうか」。そう問いたくなる信仰者もいるでしょう。 その問いに、聖書が答えます。 「彼は一つのささげ物によって、きよめられる者たちを、永遠に全うされたのである。」ヘブル人への手...