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老いを世の物差しで測らない
今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...
検索語: “荒野”
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今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
皮肉屋は、美しい部屋に通されると、まず埃を見つけます。 エレミヤ書は、二種類の人を並べて描きます。のろわれた人は、荒野に立つ乾いた低木のようだ、と。 「彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地におる。」 エレミヤ書 17:6 (口語訳) この人の悲劇がどこにあるか、心に留めてください。良いものは、ちゃんと届いているのです。ただ、それ...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
多くのクリスチャンが、神はご自分の民の寿命を七十年、あるいは八十年に区切っておられる、と思い込んでいます。その根拠とされるのが、詩篇90篇の一節です。 「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悲しみとであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」 詩篇 90:10 (口語訳) この詩篇を書いたのはモーセです。そして...
ヨルダン川で、父なる神がイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれた、そのすぐあとのことでした。イエスは荒野に導かれ、悪魔が試みるために近づいてきます。表向きは、飢えのこと、力のことのように見えます。けれども戦いの芯にあったのは、「あなたは何者か」という問いでした。 悪魔が使った言葉を、よく見てみてください。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じ...
新しい季節は、しばしば嵐とともに始まります。世界を見渡せば、騒がしさばかりが目につきます。自分の状況に目をやれば、風の冷たさが肌に触れます。舟は荒れた海のただ中にあるように思え、不安が心を占めようとします。 けれども、嵐はあなたの行き先ではありません。 神がイスラエルをエジプトから救い出されたのは、彼らを荒野に置き去りにするためではありませんでした。ある特定の場所へ導き入れるために、救い出されたの...
私たちの「さばき」の理解を、根こそぎ揺さぶる時期が、歴史の中にあります。 エジプトを出てから、シナイに着くまでの道のりです。 神はイスラエルの人々を奴隷の家から連れ出されました。彼らは紅海を渡りました。ところが、そのすぐあとから、彼らはつぶやき始めます。紅海のほとりでつぶやき、マラの苦い水の前で不平を言い、飢えれば、荒野で死なせるために連れ出したのかと神を責めました。 つぶやきは罪です。不平もまた...
燃え尽きは、いつも罪とはかぎりません。ときにそれは、ただ体の道理です。 わたしたちは疲れ果てても、立ち止まることを弱さの証拠のように思って、무理を押し通そうとします。もっと働こう、もっと長く祈ろう、とにかくやり遂げよう——そう自分に言い聞かせるのです。 けれども神は、わたしたち自身よりもはるかに現実的に、人の限界をご存じです。 エリヤが荒野で倒れ伏したとき、神は「起き上がってもっと励め」とは言われ...
天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
群衆に気を取られていると、救い主を見落としてしまいます。 エリコの通りは騒然としていました。人の声、足音、物売りのざわめきが入り混じり、だれもが押し合いへし合いしながら、あの名高い教師をひと目見ようとしていたのです。 けれども、有名人を眺めることと、命綱を仰ぐことは、まるで別のことです。 ザアカイは背が低く、人々の肩越しに見ることができませんでした。しかし、その切実さが、彼に別の種類のまなざしを与...
教えによっては、信じる者を闇に敏感な人にしてしまいます。敵のことで頭がいっぱいになり、終わりの日を思って落ち着かず、悪魔が何をしているかばかり気にかけるのです。 荒野でイスラエルがへびにかまれたとき、神は「かまれた傷をよく調べなさい」とは言われませんでした。高く掲げられた青銅のへびを仰ぎ見なさい、と言われたのです。 「すべてへびにかまれた者は、その青銅のへびを仰いで見て生きた。」 民数記 21:9...
火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...
神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...
問題から逃げ出すとき、私たちはたいてい、行くべきでない場所にたどり着きます。 エリヤはイゼベルを逃れて、ホレブ(シナイ)の山まで走りました。そこは律法の山です。神がそこへ行けと命じられたわけではありません。彼をそこまで運んだのは、御霊の導きではなく、恐れの勢いでした。 彼は洞穴に身をひそめていました。委ねられた務めからは、はるかに遠い場所です。 それでも、神はそこにおられました。 「主の言葉が彼に...
ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...
つぶやきというものを、私たちはつい「悪い癖」くらいに考えます。けれどもヘブライ語をたどっていくと、それは癖などではなく、罠であることが見えてきます。 「つぶやく」にあたるヘブライ語は、こうです。(ルーン) לוּן — 「夜を過ごす、宿る、留まる」 同じ一つの語が、口語訳では場面によって訳し分けられています。ルツ記 1:16 では「宿る」と訳され、民数記 14:2 では「つぶやく」と訳されています...