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検索語: “真実”

20件の記事が見つかりました

いやしは贖いのうちに

十字架の上でのイエスの死を思うとき、わたしたちがまず心に浮かべるのは、罪のゆるしです。負債は支払われ、神との間は和らげられた——そのことを喜びます。これこそ、わたしたちの信仰の土台です。 けれども、十字架のみわざは、それよりもさらに満ち足りたものでした。イエスが負われたのは、わたしたちの罪だけではありません。わたしたちの病と、わたしたちの患いをも負われたのです。からだのいやしもまた、贖いの中に含ま...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

啓示を火に入れなさい

ある人が、御使が自分に現れたと語ります。終りの日にあって死に打ち勝つ鍵を、その御使から授かったのだと言います。 その言葉を信じるべきでしょうか。 いいえ。 御使が実在しないからではありません。御使は確かにいます。けれども神は、ご自身の言葉を飛び越えてお働きになる方ではありません。パウロは二千年前に、この問いに決着をつけています。 「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたし...

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

供給を決めるのは景気ではありません

ききんの働きはただ一つです。倉を空にし、物の値を吊り上げ、選べる道を狭めていきます。だれもが一様に貧しくなっていきます。 だからこそ、創世記の三つの場面が際立ちます。三人の人がききんに遭いました。そして三人とも、前より多くのものを携えて、そこを通り抜けているのです。 アブラハムは、入った時より豊かになってエジプトを出ました。 ききんがアブラハムをエジプトへ追いやりました。 「さて、その地にききんが...

がんばる信仰から、受ける信仰へ

多くの人は、自分を奮い立たせることで神に従おうとします。もっと節制を、もっと努力を、もっと真心を、と。 けれども、真実はそれとは違うところにあります。 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」ヨハネの第一の手紙 5:3 (口語訳) なぜ、むずかしくないのでしょうか。新しい契約は、シナイ山のような仕方で命じないからです。それはむしろ、医者が患...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

不安では人は育ちません

教会の会衆席のあいだを、そっと流れている一つの恐れがあります。 それは、神との関係にあまり安心しきってしまうと、人は怠けてしまうのではないか、という恐れです。「救いの確信」を語りすぎれば、信じる者は努力をやめてしまうのではないか。少しくらいの不安は、聖さへの良い動機づけになるのではないか。そう考えるのです。 けれども、これほど真実から離れた考えもありません。 不安は聖さを生みません。不安が生むのは...

アガペーとは何か — 条件をつけない神の愛

ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...

キリストの思い

もの忘れや思考の鈍り、頭にかかる霧のようなものを、わたしたちは人生の当たり前として受け入れてしまいがちです。「もう年だから」「自分にはそこまでの頭はないから」と。 けれども、わたしたちの本当の身元がイエスにつながっているのなら、その中には、わたしたちの思いも含まれています。 神がアダムを造られたとき、彼には輝くような知性がありました。数えきれないほどの生き物の一つひとつに、その本性を見抜いて名をつ...

十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...

愛と好意のあいだ

ダビデ王は、神との関係について、ひとつはっきりと分かっていたことがありました。神はすべての人を愛しておられる。そのうえで、神はこの自分を喜んでくださっている。彼はそう信じていたのです。 その思いは、詩篇のことばにそのまま表れています。 わたしの敵がわたしに勝ち誇ることのないことによって、あなたがわたしを喜ばれることを、わたしは知ります。 詩篇 41:11 (口語訳) ここで用いられているヘブライ語...

罪はもう記帳されません

聖書の中には、ギリシア語の学者たちでさえ、説明するとき一度息を整えるほど強いことばがあります。 「主が罪を認めない人は、さいわいである」ローマ人への手紙 4:8 (口語訳) / 詩篇 32:2 口語訳はここを「認めない」と訳していますが、原語の否定は二つ重ねられています。(ウー・メー) οὐ μή — 「決して…ない」すなわち「どんな場合にも、どんな事情があっても、絶対にない」ということです。 神...

セラ——立ち止まるという技

聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...

真実をはさむ愛

愛のない真実は人を壊します。真実のない愛は人を欺きます。 主イエスは、その両方を同時に手に持つすべを知っておられました。 井戸のそばでサマリヤの女と交わされたやりとりを思い起こしてみましょう。彼女は人々から外され、壊れた関係が幾重にも絡まり、恥を背負って生きていました。 主イエスは、彼女の過去を見ないふりはなさいませんでした。けれども、そこから話を始めもしませんでした。 主はまず、彼女に頼みごとを...

愛は、愛されたところから始まる

自分の神への愛を、はかりにかけようとする人がいます。どれほど真実か、どれほど揺るがないか、どれほど強いか、と。 けれども聖書は、こう思い起こさせます。 「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」ヨハネの第一の手紙 4:19 (口語訳) ここで「愛する」と訳されている言葉は (agapaō) ἀγαπάω — 「価値を置く、尊ぶ」。愛とは義務ではない、ということです...

なぜ、つぶやきは裁かれなかったのか

私たちの「さばき」の理解を、根こそぎ揺さぶる時期が、歴史の中にあります。 エジプトを出てから、シナイに着くまでの道のりです。 神はイスラエルの人々を奴隷の家から連れ出されました。彼らは紅海を渡りました。ところが、そのすぐあとから、彼らはつぶやき始めます。紅海のほとりでつぶやき、マラの苦い水の前で不平を言い、飢えれば、荒野で死なせるために連れ出したのかと神を責めました。 つぶやきは罪です。不平もまた...

復活の主という鏡

わたしたちには癖があります。自分の人生を——その痛み、その失敗、その限界を——じっと見つめて、それを動かしようのない最終の現実として受け入れてしまう癖です。 けれども聖書は、別の鏡を差し出します。自分から目を離して、イエスを見なさい、と。しかも、ガリラヤの岸辺を歩かれた日のイエスだけではありません。今この瞬間のイエス——天に上げられ、栄光を受け、父の右に座しておられるそのお姿を見なさい、と招かれて...

神は根から実を測られます

わたしたちはしばしば、目に見えるもので働きを測ります。規模、活動の多さ、人目につくかどうか。けれども聖書は、外に現れた姿がすべてを語ることはない、と告げます。 サムエルはエリアブを見て、心を動かされました。けれども神は、そうではありませんでした。 「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」サムエル記上 16:7 (口語訳) 神の見極めは、枝からではなく、根から始まります。 しかし、聖書はもう一つの真実...

あなたの価値を決めたのは、十字架です

肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...