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自信のない自分に、聖書は何と言うか
ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
検索語: “苦しみ”
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ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
自分の問題を見つめること。それは、この世でいちばんたやすいことです。 荒野で、イスラエルの人々は毒蛇にかまれました。痛みがありました。傷口は腫れていきました。うつむいて、かまれた跡をのぞき込み、うろたえる——ごく自然な成り行きです。 けれども、自分の傷を見つめた者は、死にました。 神が備えられた治療法は、不思議なものでした。青銅で蛇を造り、竿の上に掲げよ、とモーセに告げられたのです。青銅は、さばき...
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
影には実体がありません。犬の影に噛まれることはなく、剣の影に切られることもありません。見た目はいかにも恐ろしくても、傷つける力は持っていないのです。 多くの信者が、暗い谷のような試練の中を歩きます。体の病、家庭の問題、仕事の重圧。そんなとき、敵はあなたに「もう逃げ場はない」と思わせたがります。けれども詩篇の作者ダビデは、私たちの見方を変える一つの約束を書き残しました。 「たといわたしは死の陰の谷を...
神は全能であり、すべてをご存じの方です。けれども神であるままでは、空腹も、体の疲れも、人に裏切られる痛みも、人間の側から味わったことはありませんでした。 そこで神は、人となられました。 イエスは、肉体の限りを身に負われました。疲れることを、渇くことを、そして最も近い友に見捨てられることを、身をもって知っておられます。人としての体の内に、その生涯を生きられたのです。 「この大祭司は、わたしたちの弱さ...
私たちはしばしば、苦しみと喜び、つまずきと祝福を、同じ一本の時間軸の上に並べて眺めます。どちらも同じ重さを持つかのように。けれども聖書は、私たちの人生にもう少し違うかたちを——別の幾何学を描いています。 「悪しき日」と「さいわいな日々」。この二つには、はっきりとした違いがあります。 「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」 エペ...
解放とは、意志の力をふりしぼる激しい戦いだ——わたしたちはつい、そう思い込みます。習慣を断ち切ろうと歯を食いしばり、もう一日だけ耐えられますようにと願う。けれども肉は頑固なものです。押さえつければ押さえつけるほど、いっそう強く押し返してくるように感じられます。 「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」 ガラテヤ人への手紙 5:16 (口語訳) もっと高...
主イエスは、エマオの途上の弟子たちに、道徳や努力の話をなさいませんでした。もっと深いところに語りかけられました。 「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ」 ルカによる福音書 24:25 (口語訳) 指摘は二つ。そして、それは今も変わりません。 愚かさ — 頭の出来が足りなかったからではありません。すでに手にしていた聖書を、彼ら自身が分かっていなかったからで...
イザヤ書53章は「霊的な」いやしだけを語っているのではないか。そう思いめぐらす信仰者がいます。あるいは、限られた種類の病だけを指しているのではないか、と考える人もいます。 イザヤはこう記しました。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」イザヤ書 53:4 (口語訳) ここで用いられているヘブライ語に、目を留めてみたいのです。 (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」……...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
落胆には、境遇から来るものもあります。けれども多くは、内側の空しさから来ます。 エレミヤは、そのことを知っていました。人生が音を立てて崩れていくただ中で、彼はこう言いました。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳) 彼は「学びました」とは言いませんでした。「食べました」と言っ...
火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...
私たちは、神が助け出してくださった苦しみについては、よく感謝します。けれども、そもそも足を踏み入れずに済んだ苦しみについて、感謝することはめったにありません。 神のご性質には、どこまでも先手を打つ一面があります。神はあなたの傍らを歩まれるだけではありません。あなたの前を歩いておられるのです。 「わが神はそのいつくしみをもって、わたしを迎えられる。」 詩篇 59:10 (口語訳) ここで「いつくしみ...
世には、成功へのはっきりした型があります。せわしない歩調、すぐに結果を求める心、そしてもう少し急げばたどり着けるという、ささやくような約束です。 けれども、たどり着いた先で払う代価は、たいてい小さな文字で書かれています。 イサクの物語に、それが見えます。飢饉のとき、人々はこぞってエジプトへ下って行きました。エジプトは、世のしくみを映す名前です。しかし神はイサクに、そこへは行かず、今いる場所にとどま...
あなたのアイデンティティをめぐって、目に見えない争いが起きています。しかもそれは、あなたが生まれ出るその瞬間に、いちばん激しくなるのです。 創世記に、こんな場面があります。ラケルは出産の苦しみのなかで、命が尽きようとしていました。彼女は生まれたばかりの我が子を、自分の痛みという窓ごしに見つめます。そして名を呼びました。(ベン・オニ) בֶּן־אוֹנִי — 「わたしの悲しみの子」と。 誕生にと...
精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。 不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に...
神とはほんとうにどんなお方なのだろう、と思いめぐらしたことがあるなら、聖書を開いてみてください。 「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネによる福音書 14:9 (口語訳) 推し量る必要はありません。影はありません。矛盾もありません。 イエスがらい病の人に触れられたとき、それは父の御手でした。イエスが打ちひしがれた者を起こされたとき、それは父の心でした。イエスが虐げられた人をいやされたとき、そ...
イスラエルがレピデム——「休む所」という意味を持つ場所——に入ったとき、アマレクが来て戦いをしかけました(出エジプト記 17:8)。 アマレクという名は、(アーマール) עמל — 「労苦、疲れ、骨の折れる苦役」という語根から来ています。 この戦いは、ただ外の敵との戦いではありませんでした。 自分の力でやろうとする方へ引き戻す力との戦いだったのです。 モーセは丘の上に立ち、手を上げていました。 そ...
エデンの園で、堕落ののち、神はアダムにこう言われました。 「あなたは顔に汗してパンを食べ」 創世記 3:19 (口語訳) 汗は、痛みをともなう労苦の姿となりました。生きるために働き、かつては与えられていたものを自分で勝ち取り、すべてが自分の肩にかかっているかのように生きる——その姿です。 そして、もうひとつの園が来ました。 わたしたちの罪の重みを負って、主イエスはゲツセマネにひざまずかれました。そ...
神がまだ一言も語られない前、光が沈黙を破るよりも前に、聖書は地の最初のありさまを、思いがけない筆致で描きます。 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」 創世記 1:2 (口語訳) それは無秩序でした。それは荒れ騒ぐ水でした。形もなく、平安もなく、帰るべき家もない世界。宇宙そのものが、落ち着きを失っていたかのようです。 それなのに——その混沌のただ中に、神の霊が水のおもてをおおっていました...