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13件の記事が見つかりました

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

からだは神の宮

敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...

務めの前に、まじわりを

イエスは、正すことから始められませんでした。つながることから始められました。 召しについての話をなさる前に…失敗にお触れになる前に…何かをお命じになる前に… そこには、食事がありました。 「さあ、朝の食事をしなさい」 ヨハネによる福音書 21:12 (口語訳) 恵みはいつも、まずまじわりを養います。 イエスは、「ペテロよ、申し開きをしなさい」とは言われませんでした。ただ、「さあ」と招かれたのです。...

安息がすべてを変える

長い語りかけの終わりに、イエスはひとつの、単純でありながら深いことをなさいます。ご自分の民を、安息をもって祝福されるのです。 何もしないでいることの安息ではありません。現実から目をそらすことの安息でもありません。信頼から生まれる安息です。 「信じたわたしたちは、その安息にはいるのです。」ヘブル人への手紙 4:3 (NKJV より私訳) 安息とは、心が恐れをくり返し思い描くのをやめる場所です。安息と...

見つめる者が、変えられる

わたしたちの多くは、力ずくで自分を変えようとします。けれども主イエスは、まなざしによって、わたしたちを変えてくださいます。 パウロはこう言います。 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 コリント人への第二の手紙 3:18 (口語訳) 変化は、努力から生まれるのではありません。触れつづ...

燃え尽きたあなたへ、休んでよいのです

天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...

あなたの価値を決めたのは、十字架です

肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...

なぜ神は混乱を止めないのか

神は傑作を造られました。天と地を造り終えられたとき、神はただ「良い」と言われたのではありません。「はなはだ良かった」と言われたのです。 そしてそのあと、神は危険とも思える一手を打たれました。人に鍵を手渡されたのです。 神は人に支配権をお与えになりました。この地に対する権威を、私たちの手に委ねられたのです。ところが悲しいことに、最初の人アダムは、偽り者の側に立ってしまいました。あの嘘に耳を貸すことを...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

聖書が語る赦し ― 恵みが与える自由

法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...

ヘセド ― 追いかけてやまない神の愛

ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...

豊かさには目的がある

自分のための繁栄と、務めのための繁栄。この二つの間には、はっきりとした違いがあります。 繁栄という言葉は、しばしば欲深さや放縦と結びつけられ、評判がよくありません。けれども聖書において富とは、神との契約に基づく務めを果たすための道具なのです。 エジプトのヨセフを思い起こしてみましょう。パロは夢を見ました。七頭の肥えた雌牛と、七頭のやせた雌牛の夢です。神はヨセフにその解き明かしを与えられました。七年...