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神はわたしに失望しているのか
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
検索語: “さばき”
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また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
エノクは三百年のあいだ、神とともに歩みました。その歩みは、ぼんやりとした信心ではありません。ひとつの具体的な啓示から始まったものでした。 エノクが六十五歳のとき、ひとりの男の子が生まれます。神はその子を、メトセラと名づけるようにと告げられました。 「エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。」 創世記 5:21-22 (口語...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
人類は神の御子を捕え、木の十字架に釘づけにしました。それが、主の愛と数々のみわざに対する、私たちの返答でした。私たちは主を拒んだのです。 しかし神は、復讐をもって応じられませんでした。御子を拒んだこの世を、滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。そうではなく、私たちの憎しみの行いを、ご自身の救いのみわざへと変えてくださったのです。 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さ...
律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...
人は神ではなくサタンを信じ、大逆の罪を犯しました。このただ一つの選びによって、傷ひとつなかった世界に、老いと病と死が入り込んだのです。 わたしたちはふだん、自分を地上の系図で説明します。父の短気を、父の不安を、父の病歴を、いずれ受け継ぐものと思い込んでいます。世は言います。あなたの健康も、あなたの性格も、血のつながりが決めるのだと。 けれども聖書は、その鎖をきっぱりと断ち切ります。イエスは第二のア...
私たちの「さばき」の理解を、根こそぎ揺さぶる時期が、歴史の中にあります。 エジプトを出てから、シナイに着くまでの道のりです。 神はイスラエルの人々を奴隷の家から連れ出されました。彼らは紅海を渡りました。ところが、そのすぐあとから、彼らはつぶやき始めます。紅海のほとりでつぶやき、マラの苦い水の前で不平を言い、飢えれば、荒野で死なせるために連れ出したのかと神を責めました。 つぶやきは罪です。不平もまた...
わたしたちには癖があります。自分の人生を——その痛み、その失敗、その限界を——じっと見つめて、それを動かしようのない最終の現実として受け入れてしまう癖です。 けれども聖書は、別の鏡を差し出します。自分から目を離して、イエスを見なさい、と。しかも、ガリラヤの岸辺を歩かれた日のイエスだけではありません。今この瞬間のイエス——天に上げられ、栄光を受け、父の右に座しておられるそのお姿を見なさい、と招かれて...
かつてダビデは、神の臨在のしるしである契約の箱を、自分の町へ迎え入れようとしました。新しい車を用意し、盛大な行列を整えての出立でした。けれども、その旅は悲劇に終わります。ウザという人が、箱を支えようと手を伸ばし、その場で命を落としたのです。 (ウザ) עֻזָּא —「彼の力」 神の臨在を「自分の力」で扱おうとするとき、待っているのは疲れ果てた心と、力尽きた働きです。神が求めておられるのは、あなた...
人は、二つの山に同時に住むことはできません。 ヘブル人への手紙 12 章は、律法が与えられたシナイ山を、身の縮むような筆致で描いています。そこは暗黒と、やみと、あらしの場所でした。火が燃えていました。さばきの気配があまりにも重く立ちこめていて、たとえ獣であれ、この山に触れるものは打ち殺されたのです。 律法と恵みを混ぜ合わせようとするとき、私たちは気づかぬうちにシナイ山へ引き返しています。そしてその...
多くの人は、聖書の系図を読み飛ばします。見慣れない古い名前が延々と並ぶのを見て、情報の「ブラックホール」のように感じるのです。冗長で、味気ないもの、と。けれども御国には、無駄な言葉というものが一つもありません。 創世記五章を開くと、アダムからノアまでの名前が並んでいます。表面だけを見れば、生まれた、生んだ、死んだ、という記録にすぎません。ところが、そのヘブライ語の名前の意味をたどっていくと、そこに...
肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...
裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...
法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...
「もし神が、わたしに愛想を尽かしておられたら。もし今度こそ、行き過ぎてしまったのなら。」 そんな思いが胸を離れないなら、この御言葉は、誓いをもって答えます。 「わたしは再びあなたを怒らない、またあなたを責めないと誓った。……わがいつくしみはあなたから移ることなく、わが平和の契約は動くことがない」イザヤ書 54:9–10 (口語訳) 神は、軽い気持ちでこれを約束されたのではありません。御子の成し遂げ...