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検索語: 神の時

5件の記事が見つかりました

神の時が遅すぎることはありません

神による遅れのただ中にいるとき、私たちはたいていそれに気づきません。ただ、重くのしかかる圧力として感じます。「どうして、よりによって今なのか」と思います。時には、神が黙っておられるようにさえ思えます。 けれども、聖書はこう語ります。 「人の歩みは主によって定められる」詩篇 37:23 (口語訳) 急がされたのでもなく。行き当たりばったりでもなく。定められているのです。 ある家族が、夜の便に間に合わ...

休みが奇跡に場所をあける

奇跡は、声高ではありません。劇的な演出をともなうものでもありません。それはたいてい、いちばん静かな場所から始まります——休むところから。 主イエスは病む人をいやし、からだを回復させ、心を縛るものを解き、たましいを強くしてくださいます。けれども、そのなさり方は、主ご自身が示してくださった型のとおりです。 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」ヨハネによる福音書 5:17 (...

神の時が、すべてを美しくする

種を蒔き、祈り、その場に立ち続けてきた——それなのに、何ひとつ動かない。そんな季節があります。 神は忘れてしまわれたのだろうか。あるいは、私が聞き違えたのだろうか。そもそも、刈り入れの日など来ないのではないか。 けれども、聖書はこう告げます。 「神のなされることは皆その時にかなって美しい」伝道の書 3:11 (口語訳) パウロもまた、同じことを書いています。 「たゆまないでいると、時が来れば刈り取...

御父の歩調で歩まれる主

ヤイロの娘は、死にかけていました。一刻を争う時でした。 ところが、その家へ向かう道の途中で、主イエスは足を止められました。ひとりの女がその衣にさわり、主は振り返り、その人を捜し、語りかけ、「娘よ」と呼ばれたのです。 私たちであれば、きっと先を急いだでしょう。主は、そうなさいませんでした。 なぜでしょうか。 主は、私たちとは違う歩調で歩んでおられたからです。御父の歩調で。 物語は、こう続きます。 「...

神の回復には、いつも上乗せがある

神の御手の中では、失敗が終わりになることはありません。むしろ、実りを生む土となります。 賠償のささげ物(レビ記6章)では、罪によって失われたものは、元の価にその五分の一(二割)を加えて返さなければなりませんでした。 神がこれを定められたのは、罪を軽く見せるためではありません。人の弱さに、神がどう応えてくださるかを示すためでした。応えは、最低限の埋め合わせではなく、あふれるほどの豊かさなのです。 だ...