備えは覆いの向こうに

わたしたちは恵みを、過去に起こった出来事のように、あるいは口座に残っている静かな残高のように考えがちです。けれども聖書が描く恵みは、もっと生き生きと動いています。
使徒ペテロは、わたしたちに向かって、運ばれてくる恵みにひたすら望みを置きなさいと語ります。
ここで「与えられる」と訳されている言葉は、原語では現在・受動のかたちです。(pheromenēn) φερομένην — 「運ばれつつある」。つまり恵みは、今この瞬間も運ばれ続けているのです。せき止められた水ではなく、絶えず流れ込んでくるいつくしみです。
では、それはいつ届くのでしょうか。「現れる時に」と記されています。
「現れ」と訳されたギリシア語は (apokalupsis) ἀποκάλυψις — 「覆いを取り去ること」です。
幕がそっと引かれ、隠されていた傑作が姿をあらわす——あの瞬間と同じ意味合いです。しかも原文はここで (en) ἐν — 「…の中で」という前置詞を用いています。口語訳が「現れる時に」と訳しているところです。恵みは、イエスの覆いが取り去られる、その只中で運ばれてくるのです。
主が地上を歩まれたとき、そのみわざのひとつひとつが、目の前の必要に応じてご自身をあらわす「覆いの取り去り」でした。飢えた人々に、主はただパンを配られたのではありません。いのちのパンとしてご自身をあらわされました。悲しみに沈むマルタには、よみがえりであり、いのちであるご自身を示されました。目の見えない人には、世の光としてのご自身を明かされました。
主の新しい一面を見るたびに、新しい恵みの供給が届きます。今日、足りなさの前に立っているなら、必要なのは歯を食いしばって解決を絞り出すことではありません。必要なのは、覆いが取り去られることです。
主をはっきりと見るとき、あなたに必要な備えは、おのずと姿をあらわします。
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