わたしたちは、からだという器に住む霊であり、堕落した世界を歩いています。

聖書はこの世界を荒野と呼びます。そして荒野を行けば、どうしても死のにおいを帯びたものに触れてしまうのです。

それは、希望をすり減らすような会話かもしれません。不安をあおるニュースかもしれません。あるいは、わたしが手にした本のいくつかのように、賢そうに響きながら、実は「鍋の中に死がある」ような思想かもしれません。

旧約聖書において、神は死に触れた者のために、特別な備えを用意されました。それは通常の罪祭ではありません。赤い雌牛の灰を、流れる水に混ぜたものでした。

この水には、ヒソプ(信仰)と杉の木(威光)が加えられ、汚れた者に振りかけられて、その人を再び清いものとしたのです。

この雌牛は雌でした。聖書の予型において、雄は客観的な真理(立場)を表し、雌は主観的な経験(適用)を表します。

このささげ物が語っているのは、適用なのです。

世の否定的な言葉に頭を抱えるとき、人を蝕む環境の重さに沈むとき、あなたはもう一度救われる必要はありません。あなたはすでに主のものです。

必要なのは、みことばの水による洗いです。「灰」——すなわちイエスの完成されたみわざ——が、今この良心に適用されることなのです。

イエスがすでに成し遂げてくださった真理に心を浸すとき、あなたの思いは洗われていきます。

「……水で洗うことにより、言葉によって教会をきよめて聖なるものとするためであり、」 エペソ人への手紙 5:26 (口語訳)

世の死に触れたなら、主のいのちで洗い流しましょう。