書かれた御言葉はもう古い、と言う人がいます。
主イエスは、そうは考えませんでした。

荒野で、敵と真正面から向き合われたとき、
主イエスが用いられたのは、幻でも、奇跡でも、新しい啓示でもありませんでした。

聖書でした。

「導かれている気がします」でもなく、
「神がこう語っておられる気がします」でもなく。

ただ、ひとこと。
「書いてある」
マタイによる福音書 4:4–10 (口語訳)

ここで主が用いられた言葉は (ゲグラプタイ) γέγραπται —「書いてある」です。かつて書き記され、今もなお効力を失っていない、という響きを持つ言い方です。口語訳はこれを「…と書いてある」と訳しており、四章の四節、七節、十節と、誘惑のたびに同じ言葉が繰り返されているのを、ご自分の聖書で確かめることができます。

神の御子が、最も弱くあられたその時に、
書き記された御言葉に身をゆだねられたのなら、
私たちがその道を越えていくことはありません。ただ、後に従うのです。

書かれた御言葉は、語られた言葉より霊的に劣るものではありません。
それはむしろ、あらゆる声が本物かどうかを量る、ものさしなのです。

信仰とは、新しい何かを聞くことばかりではありません。
すでに語られた言葉の上に、しっかりと立つことでもあります。

主イエスが「書いてある」と言われたとき、まことの権威がどこに宿っているのかを、私たちに示してくださったのです。