荒野に足止めした一語

十一日。ホレブの山からカナンの境までは、歩いてそれだけの道のりです。
イスラエルは、四十年かかりました。
彼らは神を知らない民ではありませんでした。過越の小羊の血が、その家の戸口をおおっていました。紅海を、かわいた地を踏んで渡りました。エジプトの軍勢が背後に沈んでいくのを、その目で見た人々です。あがなわれた民、救い出された民でした。
それでも彼らは、さまよいました。
聖書は、距離のせいにしません。荒野のせいにもしません。パロのせいにもしません。ただ一つの言葉を挙げます。
ここで用いられている語は (アピスティア) ἀπιστία —「信じようとしないこと、不信仰」です。知らなかったのではありません。イスラエルは約束を知っていました。あの地はあなたがたのものだと、神ご自身が告げておられたのです。不信仰とは、神が語られたことを知っていながら、それを本当のこととして受け取ることを拒むことです。
カデシ・バルネアで、十人の斥候は巨人を見上げ、こう報告しました。
神はすでに、その地は与えられていると言われました。斥候たちは、その地は取れないと言いました。イスラエルは斥候の側に立ち、こうして荒野が、一世代のあいだ彼らの住まいとなったのです。
救いは彼らをエジプトから連れ出しました。けれども彼らをカナンへ入れることができるのは、信仰だけでした。神は四十年の回り道など、少しも望んでおられませんでした。数日のうちに、約束の地に立たせたかったのです。あの遅れは、神のご計画ではありませんでした。不信仰が払わせた代価でした。
神は四十年の回り道など、計画しておられませんでした。それを招いたのは、不信仰です。
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