あえて貧しくなられた主

十字架の上からイエスが最後に見たものの一つは、ご自分の衣をめぐってくじを引く兵卒たちの姿でした。
すべてを所有しておられる方が、そこに掛かっておられました。その足もとでは、残されたわずかな衣をめぐって、さいころが転がされていたのです。この光景こそ、新約聖書の中でもとりわけ読み違えられてきた一節の背景にあるものです。
パウロはこの一文を、お金について語る二つの章のまん中に置きました。コリント人への第二の手紙 8 章と 9 章で、パウロはエルサレムの貧しい信徒たちのための献金を取りまとめています。マケドニヤの諸教会の惜しみない心を褒め、テトスを遣わして献金を仕上げさせます。前後の文脈はまるごと、財と施しの話なのです。お金を扱う章の中から 9 節だけを抜き出して、これは純粋に霊的な意味だと言い切ることはできません。
イエスは霊的に貧しくなられたのだ、と教える人もいます。けれども主は、霊的に貧しくなられたことなど一度もありません。それに、その論を最後まで追ってごらんなさい。もし霊的な貧しさが私たちを富ませるのなら、霊的な貧しさは良いものということになり、私たちは皆それを追い求めるべきだ、ということになります。そんなことを信じる人はいません。主が引き受けられた貧しさは、現実のものでした。
「貧しくなられた」と訳されている語は (eptōcheusen) ἐπτώχευσεν — 「貧しくなった、無一物になった」です。これは (ptōchos) πτωχός — 「物乞い、まったく人に頼るほかない者」から来ています。つつましい暮らしという意味ではありません。すべてを剥ぎ取られた人の姿です。
そして、主が手放されたものを思ってみてください。主はあらゆる意味で富んでおられました。
星々をその位置に据えられたのは主です。どの畑も、どの鉱脈も、どの海も、主のものでした。それなのに十字架の上で、主は何ひとつ持っておられませんでした。衣は兵卒たちに取られ、裸のままさらされ、のろいの下に、負債者の場所に掛かられたのです。
これは、贖いのみわざ全体を貫いている身代わりの型です。主は私たちのものを取り、私たちが主のものを受けられるようにしてくださいました。
主がのろわれたのは、あなたが祝福されるためでした。主が退けられたのは、あなたが受け入れられるためでした。主は負ってもいない負債を払ってくださいました。あなたには、払いきれない負債があったからです。そしてコリント人への第二の手紙 8:9 は、この交換の一覧にもう一つを書き加えます。主が貧しくされたのは、あなたが満たされるためでした。
これは貪欲への招きではありません。パウロがこの言葉を書いたのは、貧しい人々のための献金を集めるためでした。満たされている信徒とは、与えることのできる信徒です。十字架での交換は、金銭への愛を育てるものではありません。むしろそこから自由にします。あなたの供給源が、もはや問われることのないものになるからです。
ですから問いは、イエスがあなたの必要を買い取ってくださったかどうかではありません。御言葉は、買い取られたと告げ、その理由まで告げています。「あなたがたのために」と。問いは、そのみわざのその部分を、あなたが受け取るかどうかです。だれも無理に押しつけはしません。けれどもそれは、あなたの罪を負ったあの同じ十字架の内側にあるのです。
あなたの必要は、遠くから約束されたのではありません。十字架で買い取られたのです。
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