世には、成功へのはっきりした型があります。せわしない歩調、すぐに結果を求める心、そしてもう少し急げばたどり着けるという、ささやくような約束です。

けれども、たどり着いた先で払う代価は、たいてい小さな文字で書かれています。

イサクの物語に、それが見えます。飢饉のとき、人々はこぞってエジプトへ下って行きました。エジプトは、世のしくみを映す名前です。しかし神はイサクに、そこへは行かず、今いる場所にとどまるようにと告げられました。

「エジプトへ下ってはならない。わたしが示す地に住みなさい。あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、」 創世記 26:2-3 (口語訳)

神は、豊かさを憎まれるお方ではありません。働くことを嫌われるお方でもありません。けれども、人を内側から食いつぶしていく種類の「成功」は、よしとされないのです。

世の利益と、神の祝福は、はっきり違います。世は「痛みなくして得るものなし」と言います。多くの場合それは、健康を削り、眠りを削り、心の平安を削ってでも前に出ろ、という意味です。数字は確かに伸びるかもしれません。けれども目は疲れではれ、心は不安で重くなっていきます。

聖書は、自分の成功をはかるものさしを差し出します。

「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」 箴言 10:22 (口語訳)

ここで「悲しみ」と訳されている言葉は、(etsev) עֶצֶב — 「痛みを伴う労苦」です。つまり主の祝福には、身を削るような苦しみが伴わないということです。

体を鍛える人を思い浮かべてください。力を入れ、汗を流し、確かに負荷はかかります。けれども痛みが鋭く刺すようになったなら、それは何かが裂けている合図です。成長ではなく、故障です。

神の道にも、労働はあります。上に立つ人を敬い、勤め先を大切にし、働くことの尊さをそこに見ます。けれどもそれは、息もつけないほど張りつめ、心身を引き裂くような、傾いた生活へと人を追い込むものではありません。

もし今歩いている道が、あなたの平安を、家族を、健康を代価として取り立てているなら、いったん立ち止まり、誰が先頭を歩いているのかを確かめるときです。

本当の祝福は、口座を満たすだけでなく、たましいを守ります。