アブラハムは、子を与えるという神の約束を、なかなか信じきれずにいました。その心のうちは、こぼれ出た言葉に表れています。
「主なる神よ、わたしに何をくださろうとされるのですか。わたしは子がないままで死んでゆき、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルです」 創世記 15:2 (口語訳)

神は、その嘆きに理屈で答えられたのではありません。彼が**何を見つめていたか**に、答えられたのです。

神は、二枚の絵を差し出されました。
• **ちり** — 昼のために。 「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くしよう」 創世記 13:16 (口語訳)
• **星** — 夜のために。 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」……「あなたの子孫はあのようになるでしょう」 創世記 15:5 (口語訳)

「天を仰いで」と訳された言葉は (ナーバト) נָבַט — 「目を上げて、じっと見つめる」です。通りすがりに眺めることではなく、心を注いで見入ること。神はアブラハムに、新しい見方そのものを与えられました。

昼も夜も、目を上げればそこに約束があります。一日のどの時間にも、神は思い起こさせるしるしを置かれたのです。
信仰は、歯を食いしばって育ったのではありません。
信仰は、**見つめるものが変わったとき**に育ちました。

わたしたちの住む世界は、暗い映像であふれています。失敗、病、恐れ。けれども聖書は、希望の絵を、約束の絵を、わたしたちが何者であるかを示す絵を、手渡してくれます。

信じようと力む必要はありません。
心の視界を満たすものを、取り替えればよいのです。

信仰は、あなたの見つめるものが変わり続けるときに育ちます。