休むほどに、神は働かれます

握りしめた拳は、何も受け取ることができません。
律法と恵みの違いは、ちょうどそこにあります。
福音の中心にあるのは、神のみわざなのか、それとも私たちの努力なのか。何世紀ものあいだ、人はこの問いをめぐって論じ合ってきました。けれどもこの答えは、机上の議論では終わりません。神の御前に立つときの、私たちの姿勢そのものを決めてしまうのです。
律法は、恵みは勝ち取れるものだとささやきます。もっと励めば、もっと長く祈れば、もっと正しく生きれば、神はきっと報いてくださるだろう、と。けれどもそれは、人が働いているのであり、自分が働いているのです。
一方、恵みはこう告げます。あなたは何も持って来なくてよい、そしてすべてを受け取りなさい、と。ふさわしいからではありません。キリストが間に立ち、義の賜物を差し出してくださったからです。
これが、神があなたのために、あなたのうちに、あなたを通して働いてくださるということです。
新しい契約の真理は、こうです。
人が働くなら、神は休まれます。
けれども人が休み、信じるなら、神が働かれます。
ですから、自分が力んでいることに気づいたとき——肩に力が入り、「必死に祈り」、何とか突破口をこじ開けようとしているとき——少し立ち止まって、自分に問うてみてください。これは信仰でしょうか、それとも自分の力でしょうか。これは安息でしょうか、それとも恐れでしょうか。
自分の力にすがることは、信心深い衣をまとった高ぶりです。
安息とは、キリストを身にまとった信頼です。
そして、ひとつの秘密があります。
自分の義を築こうとする人は、ただ義を受け取るだけの人を、いつの時代も受け入れがたく思うのです。
恵みは与え、律法は求めます。神にしかできないみわざを神にゆだねられるのは、そのうちの一方だけです。
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