神は求める方ではなく、満たす方

神と歩むなかで、多くの人がひそかに間違った思い込みを抱えてきました。心の奥に貼りついた、目には見えないチェックリスト。「まだ足りない。もっと頑張りなさい。もっと良くなりなさい」。
それは聖なる声のように響きます。けれども、人を疲れ果てさせます。
そして実は、律法はまさにそのために与えられました。
あなたを直すためではなく、自分で自分を直せないと気づかせるために。
モーセが立ったのは、雷鳴に包まれ、震える山でした。
隔たり。掟。要求。
一方、イエスはわたしたちの土ぼこりの中へ歩み入り、こう言われました。
「受けなさい。休みなさい。すべては終わった」と。
二つの山。
二つの道。
まったく異なる二つの世界。
律法は、あなたから義を要求します。
めぐみは、あなたに義を与えます。
一つの杯を思い浮かべてみてください。
律法は言い続けます。「満たしなさい」。
めぐみは、すでに満ちあふれている杯を、そのまま手渡します。
一方は、あなたに欠けているものを見つめさせます。
もう一方は、イエスがすでに成し遂げてくださったことを見つめさせます。
そして、わたしたちが見落としやすいのは、ここです。
めぐみは基準を下げません。
ただ、その源を変えるのです。
律法のもとでは、重荷はあなたの肩にかかります。
めぐみのもとでは、備えは主のもとから流れてきます。
それが腑に落ちたとき、不思議なことが起こります。
肩の力が抜けます。
呼吸が深くなります。
心が息せき切って走るのをやめます。
イエスがすでに完了してくださったものを、自分の力で勝ち取ろうとしなくなるのです。
神が何かを要求しておられるかのように生きるのをやめるとき、あなたはついに、すべてを与えてくださる神と出会うのです。
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