失ったものの回復を待ちながら、なぜこんなにも遅いのか、なぜこんなにも遠いのかと、多くの信じる者が首をかしげます。
けれども聖書は、こう告げています。

回復は、罪責感が終わるところから始まります。

レビ記を読むと、罪過が認められ、その負いめが供え物へと移されるたびに、回復はただちに続いて起こりました(レビ記 6:5)。奪ったものをそのまま返すだけではありません。それに五分の一を加えて返すのです。百に二十を足した、あふれるほどの回復でした。

この型は、今も変わりません。
罪責感が取り去られる → 回復が解き放たれる。

敵はそのことをよく知っています。だからこそ、あなたの心に罪責感を生かしておこうと、休みなく手を尽くすのです。
「自分はこうなって当然だ」と思わせておけるなら、
イエスが代価を払って回復してくださったものを、あなたが受け取れないままにしておけるからです。

聖書は、はっきりと宣言します。
「主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」
詩篇 32:2 (口語訳)

罪が数えられないところで、
回復が差し控えられることはありません。

敵が手をつけたもの——働き、平安、家庭、財、そして自信。恵みはそれを、元の大きさに戻して終わりにはしません。
器からこぼれるほどに、満たしてくださいます。

回復は遅れてなどいません。罪責感が、その場所をあけさえすればよいのです。