律法は完全です。けれども、あなたにいのちを与えるために備えられたものではありませんでした。

パウロはこう言います。 「律法は信仰に基いているものではない」 ガラテヤ人への手紙 3:12 (口語訳)
信仰に立つか、律法に立つか。どちらかです。二つの地面に同時に足を置くことは、だれにもできません。

律法が求めるのは、すべてです。
「律法の書に書いてあるすべての事を守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」 ガラテヤ人への手紙 3:10 (口語訳)

「精いっぱいやってみなさい」ではありません。
「少しずつ良くなりなさい」でもありません。
いっさい、です。

ですから、祝福も、義も、受け入れられることも、自分の出来ばえに望みをかけた瞬間に……
その人は聖書がのろいと呼ぶ地へ足を踏み入れることになります。神が厳しいからではありません。律法には、手加減というものがないからです。

けれども、恵みは別の言葉を語ります。
「信仰による義人は生きる」 ガラテヤ人への手紙 3:11 (口語訳)
行って、生きるのではありません。
信じて、生きるのです。

律法は言います、「なるために、行え」と。
恵みは言います、「キリストが成し遂げてくださった。だから、信じなさい」と。

心の錨をイエスにおろすなら、義は目指すべき目標ではなく、受け取る贈り物になります(ローマ人への手紙 5:17)。
そして贈り物が生むのは、重圧ではなく喜びです。

神がすでに与えてくださったものを自分の力で勝ち取ろうとするのをやめた、その時から自由は始まります。