世は、血なまぐさいものを絶え間なく流し続けます。ニュースにも、スキャンダルにも、画面を埋めるドラマにも、それはあふれています。ソーシャルメディアは、他の人の人生だけが完璧に見える場所をつくり出し、私たちを比較と落ち込みの中に置き去りにします。

心を否定的なもので満たすとき、人はやがてそれを映し出すようになります。見つめるものに、人は似ていくのです。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 コリント人への第二の手紙 3:18 (口語訳)

私たちが変えられるのは、敵を研究することによってでも、目の前の障害をにらみ続けることによってでもありません。御言葉の中に示された主の栄光を見つめることによってです。ここで「鏡に映すように見つつ」と訳されている言葉は (katoptrizomai) κατοπτρίζομαι —「鏡に映して見る、映し出す」。鏡は、向けられたものをそのまま返します。そして「栄光」は (doxa) δόξα —「栄光、輝き」。噂話や、他の人の人生の染みばかりを眺めて時間を注げば、削られていくのは自分自身の平安です。あなたの人生は、デジタルの筋書きに仕える奴隷になるには、あまりにも大切です。

時は静かに過ぎていきます。栄光によって変えられる道があるのに、血なまぐさいものを眺めて日々を使い果たすことはありません。

毎朝どの鏡をのぞき込むかは、あなたが選ぶのです。