養い、いやし、また養う

聖書の中に、神が指導者たちに向かって語られる箇所があります。
やさしい言葉ではありません。
ぼかしてもおられません。
痛いほど、はっきりしています。
エゼキエル書 34:4 (口語訳)
神は、説教の内容が間違っていると責められたのではありません。
いやさなかったことを責められたのです。
神にとって、羊を飼うとは、昔から二つのことでした。
養うこと、そしていやすことです。
主イエスご自身の歩みも、そうでした。
マタイによる福音書 9:35 (口語訳)
説教で終わらせませんでした。
語るだけで済ませませんでした。
痛むところに、手を触れられました。
失敗したペテロを回復させたとき、主は「わたしのために大きな舞台を築きなさい」とは言われませんでした。
こう言われたのです。
ヨハネによる福音書 21:15-17 (口語訳)
養われて、たましいは強くなるからです。
いやされて、心は全きものとなるからです。
聖書は、なぜ人が散っていくのかも語ります。
エゼキエル書 34:5 (口語訳)
反抗したからではありません。
関心がなかったからでもありません。
養われず、顧みられなかったからです。
さまようことは、必ずしも弱さのしるしではありません。
それは、飢えのしるしなのです。
牧者がいやすことを忘れるとき、世は冷えていきます。
けれども父なる神は、決してお忘れになりません。
今もなお、養い、強め、回復させる声を起されます。
牧者に託された最も大きな務めは、単純です。弱った者を助け、病んだ者をいやすことです。
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