聖書の中で、これほど不思議な食い違いはそうありません。

ある時のエリヤは、カルメル山に立ち、天から火を呼び下し、一国の偽預言者たちを打ち破ります。恐れる影もありません。「わたしの仕える主、イスラエルの神は生きておられる」と言い切るその人は、目に見えない神を、まるで目の前にいるかのように意識していました。

ところがその直後、王妃イゼベルから脅しのことばが届くと、彼は命がけで逃げ出すのです。

「そこで彼は恐れて、自分の命を救うために立って逃げ」 列王紀上 19:3 (口語訳)

何が変わったのでしょうか。火をもって答えられた神は、変わっていません。雨を止めた力も、衰えてはいません。

変わったのは、エリヤの目の向きだけでした。見えない神を見つめることをやめ、見える脅威を見つめ始めたのです。

燃え尽きは、しばしばここから始まります。見えるものに足を取られるのです。預金の残高、検査の結果、怒りのこもったメール、積み上がった借金。どれも現実です。けれども、それが究極の現実ではありません。

神を見つめていたとき、エリヤは王たちの前に立つことができました。イゼベルを見つめたとき、彼は自分の足元さえ支えられなくなりました。

敵は、見えるものを使ってあなたを脅します。神がすでにしてくださったことの記憶を、忘れさせたいのです。あなたを養ったからすの羽音、聞かれた祈り、降ってきたあの火を。

目に見えるものに、霊で知っていることを崩させないでください。