限界は、神の側にはありません

私たちはいつも、何か新しいものを待っています。突破口、思いがけない実り、どこか「向こう側」から降ってくる奇跡。
そして足りないものばかりを数えます。お金が足りない、力量が足りない、影響力が足りない。だから答えは、外からやってくる大きな何かに違いないと思い込むのです。
けれども神は、まったく別の問いを立てられます。
モーセが国家の危機を前に、震えながら立っていたとき、神は剣も軍勢も、練り上げられた策も渡されませんでした。ただ、羊飼いの古びたつえ——モーセが何十年も握りしめてきた、ただの棒——を取り上げ、それを聖別されたのです。はじめそれは「モーセのつえ」でした。けれども彼がそれを神の手に委ねたのち、聖書はそれを「神のつえ」と呼びます。(マッテー) מַטֶּה —「つえ」。口語訳でも、出エジプト記 4:2 では「つえ」と記され、4:20 では「神のつえ」と呼び分けられています。奇跡はことごとく、モーセがすでに持っていたものを通して流れ出しました。
ここに、ひとつの型があります。
すでに手にあるものを、ささげる。
ささげられたものは、変えられます。あなたの手にある賜物は、ただの賜物です。同じ賜物が神の手に渡るとき、それは聖なるものとなり、増し加えられ、神の栄光へとまっすぐ向けられます。
問われているのは、十分に持っているかどうかではありません。それをあるべき場所に置いたかどうかです。
豊かさは、明け渡しの向こう側にあります。
ペテロが抱えていたのは、仕事の失敗でした。
けれども彼は、自分の舟を——仕事場を、資産を、暮らしの糧そのものを——主イエスが御言葉を語る場として差し出しました。
何も取れなかったその舟が、あふれる舟に変わります。
網は裂けるほどに満ち、獲物の重みで舟は沈みかけたのです。
これは、努力の成果という話ではありません。天からの供給です。負債を消し去るほどの。物語を逆転させるほどの。この世の経済の道理を、軽々と超えていくほどの豊かさです。
限りがあるのは、いつも神の側ではありません。
借金に沈みかけていたひとりの女は、ごく単純な指示に従いました。
わずかに残った油を注ぐと、それは尽きることなく流れ続け、借りてきた最後のうつわまで満たしました。
そして、止まったのです。
神の油が尽きたからではありません。
彼女のうつわが尽きたからです。
器の大きさを決めるのは、備えと信仰です。
私たちはしばしば、あふれるほどの恵みを祈りながら、神の前に小さな茶碗ひとつを差し出しています。
神が「あなたの手にあるそれは何か」と問われるとき、求めておられるのは才気でも、有利な条件でも、肩書きでもありません。
ただ、こころよく差し出す思いです。
ただ、明け渡しです。
ただ、あなたが携えているその平凡なものが、神のものとなったとき並外れたものに変えられる、と信じる勇気です。
神の手に渡された平凡は、もう平凡ではありません。
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