悪魔の唯一の武器

空港の搭乗口に立ったまま、どうしても機内に足を踏み入れられない人がいます。本人は「飛行機が怖いのです」と言います。けれども、正確ではありません。怖いのは飛行機ではなく、墜落です。その恐れをどこまでもたどっていくと、行き着く先はひとつ。死ぬことが怖いのです。
同じ根が、人間のほとんどの恐れの下に横たわっています。高い所を恐れるのは、落ちれば命を落とすからです。病を恐れるのは、その先に墓があるからです。ウイルスが世界を覆ったとき、人々を凍らせたのは熱でも咳でもありませんでした。死でした。悪魔はこのことをよく知っていて、戦略のすべてをそこに築いたのです。
悪魔の武器は、死そのものではありません。死の恐怖です。しかもその結果は、時おり訪れる不安などという生やさしいものではありません。聖書は「一生涯、奴隷となっていた」と言い切ります。ここで「奴隷」と訳された語は (douleia) δουλεία — 「奴隷の身分、隷属」。口語訳はこれを「奴隷」と訳しました。たったひとつの恐れが、生涯にわたる隷属を強いてきたのです。
これが悪魔のやり方です。あなたを支配するのに、手を触れる必要はありません。ただ、人生の終わりを恐れさせれば足りるのです。死を恐れる人は、安全を求めて自分の人生を小さく畳んでいきます。出て行かない。与えない。踏み出さない。声を上げない。死の恐怖は、死が来るのを待ってはくれません。前もって、生きることを盗んでいくのです。
では、主イエスはそれに対して何をなさったでしょうか。この箇所は、子たちが「血と肉とに共にあずかっている」ので、イエスも「同様に、それらのものをそなえておられる」と語ります。なぜでしょうか。神であられる方は、死ぬことができないからです。だからこそ人の体をお取りになりました。その目的ははっきり記されています。「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」——このためでした。
ここで「滅ぼし」と訳された語は (katargeō) καταργέω — 「無力にする、効力を失わせる」。主イエスは悪魔の存在を消し去られたのではありません。武装を解かれたのです。悪魔はなお存在します。しかし、その唯一の有効な武器は、キリストのものとされた人にはもはや通用しません。主は意志をもって死の中へ歩み入り、その向こう側へと歩み出られました。死は、すでに打ち破った方によって、確かめ尽くされたのです。
そして聖句は、この使命全体の目的を告げます。「かつ、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。十字架は救出作戦でした。主イエスは、あなたの行いを少しばかり改善するために死なれたのではありません。牢の扉を開くために死なれたのです。
そこで、この箇所が正直に突きつける問いがあります。主イエスが信じる者を死の恐怖から解き放たれたのなら、なぜ今も多くの信じる者がそれを恐れているのでしょうか。解放は、受け取らなければならないからです。鍵が外されたあとも、囚人は独房に座り続けることができます。扉は開いています。鎖は断ち切られています。けれども、まだ縛られていると思い込んでいる人は、縛られたままのように生きるのです。
ダビデは、十字架がそれを説き明かすはるか前に、この解き放たれた立ち位置を知っていました。
ダビデは、谷が消えたとは言っていません。恐れが消えたと言ったのです。ヘブル人への手紙2章があなたの前に差し出すのも、まさにそれです。谷のない人生ではなく、鎖のない人生です。死の恐怖が頭をもたげてきたら、十字架の事実をもって答えてください。主イエスはすでにあなたの死と向き合われ、それを武器として用いていた者の力を、すでに打ち砕かれたのです。
悪魔はあなたのいのちを奪えません。だから、あなたの自由を狙うのです。主イエスは、その武器を悪魔の手から取り上げるために死んでくださいました。
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